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32  喧嘩騒動(5)

03 19 *2010 | 未分類

「私が七歳、お前が六歳の頃のことだ。ジュニアスクールにお前が通うことになって……。私は行けなかったら羨ましくて妬ましかった。……それでお前が用意していたノートを全部引き裂いて……」

あの時は父ばかりか母にも叱られた。ロイに謝るよう告げる母に、私は味方を失ったようで悲しくなって、部屋へと駆け込んだ。そうしたら父が部屋にやって来て、きつく叱りつけた。

何故あのようなことをした――厳しく問い質す父に、私はロイが学校に行くのが悪いと答えた。子供の理屈で、私が通えないのだから弟のロイにも通ってほしくなかった。どうしようもないことだと解っていても、口惜しくて堪らなかった。

そうしたら父はいきなり私の襟首を掴んで、平手打ちを喰らわせた。
それでも私は反発したものだから、また叩かれた。叩かれた頬がじんじんと痛くて泣きながら、それでも反発した。私の泣き声を聞きつけてミクラス夫人がやって来るまでの間、父は怒り続けた。僻み心を持つな――と言う父の言葉は今でも生々しく思い出される。
あれは私にとっては苦い思い出だった。

「ああ、あの時か。けどあの時は俺も叱られたぞ。ルディの前でひけらかすな、と」
「あの頃は私もお前も些細なことで競い合っていただろう。私はお前に負けたくなかったし……」
「あれ、父上や母上から見たら面白かっただろうなあ。くだらないことで競ってたよな」
ロイはこの時になって漸く笑った。少しは元気が出て来たのだろう。
「……ルディ。来週末、何か予定があるのか?カレンダーに印があるけど……」
「ああ。クラスの女の子に映画に誘われたんだ。ロイも一緒にって」
「俺も?何で?」
「さあ。今日、突然誘われて……。どうする?気が向かないなら断るけど……」
予定は無いから行く、とロイは言った。あまり良い思いをしないかもしれないぞ――と私が告げると、ロイは首を振ってこう応えた。
「ルディと一緒なら良い」

私達はあまり友達が出来ない代わりに、兄弟仲は良かった。今では子供の頃のように競い合うこともない。それにロイとは互いに遠慮する必要もなく、気兼ねなく話せる。
私もロイと一緒なら、彼女達と出掛けても良いかと思っていた。

「解った。明日、返事をしておくよ」
明日か――と、ロイは大きく溜息を吐いた。何か用でもあるのかと思っていると、ロイは言った。
「明日、謝りに行くことになってるんだ。その怪我をした奴の家に」
「父上と?」
「うん。母上も一緒に。……気が重いけど」
「殴ったのは確かに悪いことだから、それだけ謝ってくるつもりで行ってくると良いよ」
「そうは言うけどルディ……」

その時、部屋の扉がかちりと音を鳴らした。この音はミクラス夫人が、私が寝ているかどうかを確かめに来る時の音で――。

今は何時だ――?

時計を見ると、午前三時を過ぎていた。しまった――と思いながら、ミクラス夫人の姿を見ると、ミクラス夫人は眉間に皺を寄せて、何時まで起きてらっしゃるつもりですか――と声を潜めながらも怒気を含んだ声を浴びせる。

「もう寝るよ」
「ハインリヒ様も御部屋に戻ってお休み下さい」
結局、ロイとの会話は中断され、ベッドに入る。ロイはミクラス夫人と共に部屋を出て、隣の部屋に戻っていった。

翌朝、ロイはいつも通り起きてきて、父と母に昨日のことを謝った。父は今日、仕事を半日休むことにしたらしい。九時を過ぎてから、父と母とロイは相手方の家へと向かった。

昼前に帰宅した時にはロイはまた悄げていたが、夕方にはいつもの元気を取り戻していた。しかしやはりロイの学校のことは気にかかっていた。

元々、ロイは士官学校に行きたがらなかった。それでもロイが士官学校に行かなければならなかったのは、私が行けなかったからだ。私の身体では軍人になることが出来ない。ロイに重責を背負わせてしまっているから、せめて私が支えられるだけのことは支えようと決めていた。

そして、ロイは父に何も話していないということも気にかかった。父も士官学校の幼年コースから入学して卒業したのだから、ある程度のことは解っているだろうとは思う。でも父の時と状況が変わってしまっているのかもしれない、とも思う。
ロイはまだあと5年、士官学校に通わなくてはならない。そう考えると、このまま放っておくことも出来なかった。

「父上。少し話が……」
夜、父はまだ書斎に居ることがあった。その時、私は思いきって父にロイのことを打ち明けた。

22:13

31  喧嘩騒動(4)

03 18 *2010 | 未分類

ページを捲る手を止めず、ロイは何気なく私に問い掛けてきた。
もし父や母、ミクラス夫人達にそう問われていたら、楽しいと私は応えていただろう。だが、相手がロイだと思うと隠す必要も無いように思われた。

「……授業は楽しいよ。でも……、正直に言うと、対人関係に少し疲れてる」
「疲れる……?」
「私達は旧領主家の人間だし、そういう眼で見られることは覚悟してるけど、解っていても影口を叩かれるのはどうも慣れなくて……。それに、皆が一線を引いているようで、遠慮がちで……」
「……いじめを受けているのか?」
「そうじゃない。そういうことではないんだが……、そうだな、私が気にしなければ良いのだけど、たとえば誰も私のことをフェルディナントとは呼ばない。勿論、ルディとも。ロートリンゲン様と敬称付きだ」
「それは嫌だな。俺が通ってた学校はそんなことはなかったぞ」
「私に取り入ったところで、何にもならないのにな。そうかと思えば、成績が良いのは試験問題を事前に見ているからだとか、根も葉もないことを影で言う」
「それは俺もあった。テストの点が人より良ければ、やっかまれるし、逆に悪ければ旧領主家の息子なのに、と言われる」
同じ人間なのは変わらないのにな――と呟いてから、ロイはひとつ大きな溜息を吐いた。


「……でも士官学校よりは良かったな……」
「ロイ……」
「喧嘩したんだ、上級生と」
ロイは机を見つめたまま話し出した。
「月に一度、幼年コースの縦割りグループで戦闘シミュレーションをやることがあるんだ。喧嘩をしたのはその対抗グループの相手だったんだけど……。シミュレーションではそいつらに勝ったんだ。けれど、その後で俺達のグループが全員呼び出しを喰らった。土下座をして謝れと言ってね。戦法が汚いとか言ってたけど、向こうの油断を突いただけで、そんなことは無くて正々堂々と戦って勝ったんだ。教官も見事な戦法だと褒めてくれたぐらいにね。……でも先輩が謝った。謝ることは無いって俺が言ったら、生意気だと言って殴りかかってきて……」
「それだったら……、ロイは悪くないじゃないか」
「そこまではね。それから派手な喧嘩になって……。士官学校では喧嘩は禁止されているから、気を付けていたけど……、でもあいつらが旧領主層の人間だからと良い気になるなと言って、かっと来て……。殴ったらそいつが後ろに吹っ飛んで、頭に怪我をしたんだ」
「でもロイ、それは……」
「転んだ場所に岩があったんだ。頭から血が沢山流れ出して、その時、本当に吃驚して……。相手はすぐ病院に運ばれて、俺は学校長の呼び出しを受けた。事情を説明しようとしたら、相手側の取り巻きが、俺が勝手に殴りつけたと言って……」
「父上にはきちんとその事情を説明したのか……?」
「したよ。そうしたら父上でどんな状況であれ、殴りつけた俺が悪いって……」

父は厳しいから確かにそう言うかもしれない。単なる喧嘩だけなら――、ロイが殴ったことで怪我を負っていなければ、此処まで怒っていなかったかもしれないが――。

「……それにルディじゃないけど、俺もあまりクラスメイトとも上手くいっていないんだ。父上に口聞きをしてくれとかそういう奴ばかりで……」
「そうだったのか……」
「ジュニアスクールに通っていた頃は此処まで露骨じゃなかった。友達もそれなりに居たしな。だけど士官学校では友達すら出来ない。皆、足を引っ張り合ってるんだ」
「ロイ……」

ロイはロイらしくもなく項垂れる。私はどう声をかけて良いか解らなかった。怪我をさせたことは悪いことだが、原因を作ったのは相手側ではないか――。

「……生徒だけじゃない。教官達も俺に気を遣う。いや……、気を遣うというより、媚びを売るといった方が良いのかな。この前も数学のテストがあったんだけど、その一週間前、教官が俺に復習用のプリントだといって手渡したんだ。その時は気付かなかったんだけど、テストの時、まるきりそれと同じ問題が出て……」
「お前だけにプリントを?」
「ああ。だから……、気が引けて解答せずに提出したんだ。白紙でね。それなのに、テストの点数は満点だった」

流石に驚いた。
ロイの置かれている状況は私より深刻だった。
きっとロイの場合は、旧領主層出身ということだけではない。父が大将で、軍のなかでは最上層に居ることが関係しているのだろう。

士官学校の教官も軍の組織に組み入れられているから、大将の息子であるロイを悪い風には扱わない。教官達が贔屓するのは、そうすることで父の協力を得て、昇級を考えているからだろう。

「そういうことはきちんと父上に話しているのか?」
「……話してない」
「話さなければ何も解決しないだろう」
「ルディだって学校のこと黙ってるじゃないか」
「私とロイの置かれている状況は少し異なる。……ロイに比べれ、ば私はまだ恵まれてる。少なくとも教師が私を贔屓することは無いからな。その数学の試験の話は誰が聞いても奇妙な話だぞ」

思い返してみれば、このところ電話口でもロイに元気が無かった。私も早く気付けば良かった。

「明日にでも話した方が良い。そうしたら父上だって、今回の喧嘩が何故起こったのか解ってくれる筈だ」
「……言えないよ……。最近、母上がよく電話くれていたんだ。変わったことは無いかっていつも聞かれて……。元気だし大丈夫だっていつも応えてた……。それなのに……、母上にずっと嘘を吐いてたことがバレるじゃないか……」
「ロイ。それは仕方無いよ」
母上は何か勘付いていたのかもしれない。確かに私にも最近よく学校のことを問い掛けていた。ロイから連絡があるかどうかということも――。
「……嘘を吐いていたとまた父上に殴られるじゃないか……。もうあんな殴られ方は懲り懲りだ」

ロイはふいと私から眼を逸らす。部屋に入った途端に二発殴られたというのだから――、おまけにこんなに腫れるぐらいだから、相当きつかったのだろうが――。

「ルディは父上に殴られたことが無いから解らないだろうけど……。襟首を掴まれた時の恐怖といったら無いんだぞ」
確かに拳で殴られたことは無いが――。
「……襟首を掴まれて平手打ちを喰らったことならあるぞ」
「……え……?」
ロイは驚いた様子で私を見る。冗談だろう――と聞き返す。
「本当だ。子供の頃のことだがな。口答えをしたら襟首を掴まれて、平手打ちだ。何発か喰らったぞ」
「ルディは割と物事を利く子供だったじゃないか。何でまた……って、俺、初めて聞いたぞ」
「原因は私にあったことだし、どう見ても私が悪かったんだけどな」
「聞きたい。どんな原因だったんだ?」
「……心当たりは本当に無いのか?ロイ」
「無い。うん?俺に関係することか?」

ロイはどうやら本当に憶えていないらしい。
ロイとの喧嘩が原因だったのに――。

21:49

30  喧嘩騒動(3)

03 17 *2010 | 未分類

この日の食事は、いつものように父と母と三人で摂った。ロイは部屋に閉じこもったきり、食事の時にも出て来なかった。

夕食を摂り終えてから、ロイの部屋に行った。扉をノックしても返事が無い。私だ、開けるぞ――と告げてから、扉を開くと、ロイは制服のまま、ベッドで俯せになっていた。
「ロイ……」
「ルディには関係の無いことだ。……今日は一人にさせてくれ」
「……話は少し聞いたけど……」
「疲れた……。何も話したくない……」

枕に顔を埋めていたが、その時、ロイの頬が赤く腫れていることに気付いた。父上に叩かれたのか。
「ロイ。顔を冷やさないと腫れ上がるぞ」
「放っておいてくれ」

そういう訳にもいかず、ロイの部屋を出てミクラス夫人に頼んで濡れたタオルを用意してもらった。ロイはミクラス夫人すら部屋に入れなかったらしい。

「先程、ハインリヒ様の許に行ったのですよ。旦那様に叩かれた御様子でしたから、タオルを持っていこうかと……。ですが、入るなと言われて……」
「そう……。タオルは私が渡しておくよ。ロイの分の食事はある?」
「ええ。今、お持ちしようと思っていたところでした。此方もお願い出来ますか?」

濡れたタオルとトレイに載せた食事を持って、ロイの部屋に戻る。ロイはまだベッドに俯せになっていた。
「ロイ。ほら、タオルで冷やして」
「……放っておいてくれって言っただろう!ルディ!」

タオルをロイの顔の側に持っていこうとすると、ロイは顔を上げ、吃と此方を睨み付けた。
ロイの顔は左の頬が赤く腫れていた。随分酷く叩かれたのだろう。否、もしかするとこれは叩かれたというよりも殴られたのか。

「……解った。ごめん。食事は其処に置いていくよ」

士官学校で、何かあったのだろう。
聞き出すよりも、今はそっとしておいた方が良い。ロイのことだ。きっと落ち着いたら話してくれる。

ロイの側をそっと離れて、部屋を出る。そのまま自分の部屋に戻った。ロイのことが気にはなったが、何も話してくれないのではどうしようもない。


机に向かい、参考書を開く。今日はロイと色々な話が出来ると思ったが、どうやらそれは無理なようだった。今のうちに勉強を済ませておこう。

「フェルディナント様」
一時間程机に向かっていたところ、ミクラス夫人が入浴の準備が整ったことを告げにくる。ロイはまだ部屋から出て来ないらしい。
「奥様もお困りの御様子……。旦那様は放っておけと仰っているのですが……」

喧嘩をして怪我をさせた――というのは確かに父に怒られても仕方の無いことだが、ロイが理由なく喧嘩をする筈が無い。きっと喧嘩に至るまでの何かがあったのだろう。

入浴を済ませて部屋に戻る。寝るにはまだ早いから勉強の続きを行った。


そうして机に向かって二時間が経った頃だった。時計の針が一時を指していた。そろそろ切り上げて休まなければならない。あまり遅くまで起きていると、ミクラス夫人が注意に来る。
参考書に栞を置いて閉じ、ノートも閉じて収める。大きく背伸びをして、身体を伸ばしていたところへ、扉をノックする音が聞こえた。

「どうぞ」
ミクラス夫人だろうと思った。ところが、現れたのはロイだった。一度此方を見、すぐに眼を伏せる。
「どうした?」
「……先刻はごめん」
どうやら、先程の態度を謝りに来たようだった。落ち着いたかと問うと、ロイは頷く。
「少し……、部屋に入っても良いか?」
「いつも遠慮無く入って来るだろう」
苦笑してそう応えると、ロイは半分開けていた扉を閉め、部屋の中に足を踏み入れた。机の側にやって来る。近くに置いてあった椅子を勧めると、ロイはそれに腰を下ろした。

ロイの頬は先程よりも腫れ上がっていた。きちんと冷やさなかったのだろう。それによく見ると、唇の端も切っているようだった。
「……父上も随分酷く殴ったものだな」
「父上の部屋に入るなり、襟首を掴まれて二発殴られた。流石に歯が折れるかと思った……」
ロイは頬に触れながらそう言った。
「拳骨や平手で叩かれるぐらいなら何度もあったけど、殴られたのは初めてだったな。……痛かった」
「タオル、持って来ようか?」
「いや、要らない」
「少しも冷やしていないのだろう。余計に腫れてしまうから、待っていろ」
要らないよ――と告げるロイに背を向け、部屋を出る。タオルはロイの部屋に置いておいた。それを濡らしてくることにした。
そうした部屋に戻ると、ロイは私の机の上を凝と見つめていた。
「ほら。確りと冷やしておいた方が良い」
ロイの頬に濡らしてきたタオルを当てると、ロイはこくりと頷いて、タオルを手にした。これで大分腫れが引いてくるだろう。

「難しそうなことをやってるな、ルディは」
「来年は三年生だし、進路のこともあるから怠けてられなくて」
「……帝国大学?学部は?」
「法学部に進もうと思ってる。最近、志願者が増えて倍率が上がっているから、なかなか難しいだろうけど……」
「ルディなら大丈夫だろ。毎回、学年首席じゃないか。あの学校でずっと首席を維持してるっていうのは相当なことだろう」
「相変わらず欠席が多いけどね」
ロイは私のノートを見つめていた。参考書をぱらりぱらりと捲っていく。

「ルディ。高校は楽しい?」

16:55