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29  喧嘩騒動(2)

03 15 *2010 | 未分類

休暇は家でゆっくりと過ごすことにした。
休暇が終わると試験があるから、きちんと勉強しておかなければならなかった。

そうするうちに一週間が早く過ぎ去っていく。ロイが帰ってくる日が明日に迫っていた。私はその日を心待ちにしていた。ロイが帰ってくることが嬉しかった。久々に腰を落ち着けて話が出来る――そう思って、この日を過ごしていた。


「奥様。旦那様からお電話です」
母と一緒に珈琲を飲みながら休息を取っていたところ、ミクラス夫人がリビングルームにやって来て母に告げた。午後三時というこんな時間に父から電話が来ることなど滅多に無いことだから、何かあったのだろうかと母と顔を見合わせた。
母はすぐに立ち上がってリビングルームにある電話台へと向かう。もしもし、と母が応えた。どうかなさったのですか――と問い掛ける。

「え……!?」
それから母は暫く黙り込んだ。父と母が何を話しているのか気になったが、父の声は全く聞こえない。
「……解りました。相手の方の連絡先を教えて下さい。此方から電話で謝罪します。……いいえ、私が電話をいれます。ええ、解りました」
謝罪ということは何かあったのか。母は紙に文字を書き付けてから電話を切る。母の表情からは笑みが消えていた。
「母上……。何かあったの……?」
「ごめんなさい。ルディ。今から少しやることがあるから、先に席を立つわね。アガタ、少し私の部屋に」
「解りました」
母はミクラス夫人を呼び寄せてリビングルームを後にする。出資先のトラブルでもあったのかなと思った。それにしても父から電話というのは珍しいことだが――。


リビングルームから自分の部屋に戻ろうと廊下を歩いていた時、母とフリッツの声が聞こえて来た。やっぱり投資関係のことか――と思っていたところ。
「相手側の対応がおかしくとも、ロイが怪我をさせたことは事実よ。概算で良いから完治までの治療費を計算して明日までに準備をお願いします」
「解りました。パトリックにすぐ伝えます」
ロイが怪我をさせた――?
驚いて足を止めたところ、部屋からフリッツが出て来る。此方に気付いたフリッツに何があったのかを問い掛けた。言って良いのかどうか悩むような素振りのフリッツの背後から、母が出て来て、ルディ、と呼び掛けられた。
「母上。ロイが怪我をさせたって一体……」
「詳しい状況はロイに聞いてみないと解らないのだけど、ロイが喧嘩をして相手に怪我をさせてしまったの」
「ロイが……?喧嘩……?」
「今、ロイはまだ学校に居るけど、今日帰ってくることになったの。でもこんな事情だから……」

ロイが喧嘩をして相手に怪我をさせた――。
それは到底信じられないことだった。何かの間違いだと思った。

「母上。ロイは無闇に喧嘩をしない。何か理由が……」
「理由があったとしても怪我をさせてしまったのよ。ルディ、これからフリッツ達と話し合わなければならないから、貴方は部屋で勉強していなさい」
フリッツに連れられて、パトリックがやって来る。母はフリッツ達と共に部屋に入っていった。ミクラス夫人が私を気遣って、部屋に入っているよう促す。
「ミクラス夫人。何かの……間違いだと思う」
「ええ。たとえ喧嘩をしたとしてもハインリヒ様には何か事情があった筈です。……さあ、フェルディナント様は御部屋でお待ちください」

ミクラス夫人によると、ロイは今日の6時頃に帰ってくるらしい。学校で自宅謹慎処分を告げられたため、今日帰ってくることになったようだった。

ロイの帰宅は一日早まったが、それは何とも嫌な早まり方だった。
夕刻になると、私だけでなく、母やミクラス夫人もロイの帰宅を待ちかねた。6時頃には帰ると言っていたから、時計を何度も見た。今は5時だった。あと一時間でロイが帰ってくる。

部屋で勉強をしていたところ、下で物音が聞こえてきて、ロイが帰ってきたと思い、扉を開けた。するとロイではなく、父が先に帰宅した。こんなに早く帰宅することは珍しいことだった。

フリッツと母が出迎える。階段上でちょうど父と視線が合ったので、お帰りなさい、と私も言った。父は不機嫌そうな顔で今帰った、と告げ、母にロイのことを問いかけた。
「まだ帰ってきていません。6時頃と言っていましたから……」
「そうか。では帰宅したらすぐ私の部屋に来るように言ってくれ」
父は酷く怒っていた。怒気を抑えようとしているのが、私にも解る。父はすぐに母と共に書斎に篭もった。

そして、ロイが帰ってきたのは6時を少し過ぎたところだった。
部屋を出て階段を下りたところ、ロイは此方を見ることもなく、フリッツに荷物を手渡した。フリッツと母が父の許に行くよう告げる。ロイは頷く。そしてそのまま父の部屋へと向かう。
「母上……」
「リビングルームで待ちましょう。ルディ」
母は私を促して、この場から離れた。リビングルームの扉を開ける時、父の怒声が聞こえてきた。
お前は何を考えているのだ――と。
ロイの声は何も聞こえてこなかった。

母も心配そうに父の部屋を見つめ、私にリビングルームに居るように告げた後、また父の部屋に戻っていった。

21:42

28  喧嘩騒動(1)

03 14 *2010 | 未分類

「フェルディナント様。もうすぐ休暇ですけど、どちらかへお出掛けになるんですか?」

授業を全て終えて、帰り支度を始めたところ、同じクラスの女の子二人が私の机にやって来てそう尋ねた。

「いや、何も予定は無いよ。……君達はご家族と何処かへ?」
二人は首を横に振って、私達も予定は無いんです――と応える。そして一人の女の子が、身を乗り出して言った。
「一緒に映画でも行きませんか? あの……、宜しければ弟さんも一緒に四人で」
ロイのことを学校で話すことはまず無い。だから何故ロイを誘うのかよく解らなかったが、断る理由も見つからなかった。
「弟は来週末でないと帰って来ないのだけど、それからでも良いかな」
「ええ!予定を合わせます!」
彼女達に問われるままに携帯電話の番号を教える。彼女達はお先にと言って、意気揚々と教室を出て行く。
鞄に教科書を収め終わったところへ、ケスラーから連絡が入る。校門前に到着したのだろう。

「あ、ロートリンゲン様。この間の入部の件、考えて頂けました?」
教室を出て校門に向けて歩いていると、今度は同じクラスの男子生徒が声をかけてくる。彼には、クリケット部への入部を勧められていた。
「済まない。やはり私は身体が丈夫ではないから遠慮しておく」
「運動神経が良いのに勿体ない。ロートリンゲン様が入部してくれるかもしれないと言ったら、先生も期待してましたよ」
「済まない」
彼は尚も入部を勧めてくる。やがて校門の前まで到着する。車に乗り込もうとすると、何処からともなく声が聞こえて来た。

「車で通うほどの距離かよ」
「良い身分だよな。旧領主様は。成績も金で買ってるんだろ」

心無い言葉には、もう大分慣れた。
聞こえないふりをして、車へと乗り込む。お帰りなさいませ、とケスラーはいつも通りの笑顔で迎えてくれる。それにいつもほっとする。
「ただいま」
ケスラーは学校の様子を尋ねる。一人で勉強するより楽しいよ――と、私はいつも応えていた。本当のところ、最近は少しその気持が変わってきたのだが――。


旧領主家という立場柄、媚びや僻み、そうしたものが絶えず付き纏う。テストで良い点を取れば、教師が問題を横流ししているのだと言われ、体育でも贔屓した点数をつけていると陰口を叩かれる。

そして、あからさまな好意を寄せてくる生徒も居る。そもそも私は敬称無しで呼ばれたことが無い。敬称は要らないといっても、彼等は敬称をつけて敬語で話しかけてくる。

それらがどうにも息苦しい。
本当は車で通いたくないのだが、護衛をつけないのならそうするようにと父の言いつけがある。子供の頃に誘拐されたこともあるから、仕方の無いことだとはいえ、自分が他の生徒達とは異なっているのだということを見せつけているような気分にもなる。


「お帰りなさいませ、フェルディナント様」
帰宅するとフリッツが出迎えてくれる。今日は如何でしたか――と尋ねるフリッツに、いつも通りと告げて、母の居るリビングルームへと向かう。扉をノックしてから開け、ただいま、と母に告げる。
「お帰りなさい」
母はいつも通りの笑顔で迎えてくれる。部屋の中に入って鞄から紙を取り出す。帰る前のホームルームで担任から渡された連絡用紙を、ファイルケースのなかに入れておいた。
「今度、面談があるんだって。日程が此処に書いてあるから……」
母は私から書類を受け取って、眼を通す。解ったわ――と告げ、私に先に着替えを済ませるよう促す。

高校生活も二年目が終わろうとしていた。三年目になると進学のことで色々と慌ただしくなる。面談は進学について保護者と話し合うものだった。自分の部屋に戻りさっと着替えを済ませて、またリビングルームに戻ってくる。その時には、部屋に母とミクラス夫人の姿があった。
「お帰りなさいませ、フェルディナント様」
「ただいま、ミクラス夫人」
「学校は如何でした?」
変わりないよ――と答えると、ミクラス夫人はもう時期休暇ですね――と言いながら、私の前に珈琲を置く。母はテーブルの真ん中にあったケーキを切り分け、チョコレートケーキの一切れを私の前に差し出した。
「もしかして母上のお手製?」
「そうよ。解る?」
「オレンジが乗っている時は母上が作った時だから」
母は時々、ケーキやクッキーを作ってくれる。母も何かと忙しい人ではあるが、時間を見つけてはこうして手間のかかるものを作って、私達を喜ばせてくれる。

「学校の面談は進路相談のようね。帝国大学への進学を考えているんでしょう?」
ケーキを一口食べたところで、母が問い掛けてくる。うん、と答えると母はまた問い掛けた。
「学部は?」
「……法学部を目指したいんだ」
大学進学を目指していることは父も母も知っていたが、具体的にどの学部に進みたいのかはまだ誰にも言っていなかった。母は珈琲を一口飲んでから、微笑みかけた。
「何となくそんな気がしていたわ。大学を卒業したら何をしたいの?」
それも――、自分のなかでは朧気に決めていた。
「……官吏の登用試験を受けたいと思って……。難しいのは解ってるけど……」
「お父様を見ているから解るでしょうけれど、大変なお仕事よ。貴方は身体が丈夫ではないからあまり勧めたくはないけれど……」
「うん……。解ってるけど、官吏になりたいんだ」

何か変わった職業を選んだらどうだ――とは、父に言われたこともあった。芸術に興味が無ければ文筆家になっても良いし、大学院に進学しても構わんぞ――と父は言ってくれた。

私はそのどれにも興味が無かった。ただずっと興味を寄せていたのは――。

「政治に関心を寄せているから、官吏を志望するだろうとお父様も私も予想はしていたわ。……そのなかでも貴方が目指しているのは外交官じゃないの?」
「何で解ったの!?」
「やっぱりね」
母はくすくす笑う。外交官になりたい――それは心に秘めていたことであって、まだ誰にも――ロイにさえ話していなかった。
「官吏登用試験のなかでも特に難しい試験ね。応援してあげたいけど、少し心配にはなるわ」
「母上……」
「外交官となれば各国を飛びまわることもあるでしょう。子供の頃から比べると大分丈夫になったとはいえ、やっぱり心配ね」
「……駄目だって反対する?」
不安になって問い返すと、母は首を横に振って言った。
「貴方が選ぶ道ですもの。反対はしないわ。頑張っておやりなさい」
ほっと安堵すると、でも大変なことよ――と母は釘を刺すように言った。
「うん……。解ってる」
「父上にもきちんとお話してね。残念がるかもしれないけれど、反対はしないでしょうから」
父と話をしなければならないことは少々気が重かったが仕方無い。この山を乗り越えなければ、大学に進学することも出来ない。


翌々日、父が休日だったこともあって、私は父の部屋へと赴いた。帝国大学の法学部に進学したい旨を告げると、父は溜息を吐いて、やはり官吏となる道を選ぶか――とぼやいた。どうやら父も薄々気付いていたらしい。

美術家を志望してほしかったが、と父は言ってから、私の志望を聞き届けてくれた。母の言っていた通り、反対はされなかった。身体が弱いから官吏は厳しい――とは釘を刺されたが。

21:46

27  僕の名前

03 13 *2010 | 未分類

「母上。僕の名前は初代の当主様と同じなの?」

子供の頃――確か六歳の頃だったと記憶している。本を読んでいる時にロートリンゲン家の初代当主フェルディナント・アレクシス・ロートリンゲンの名が出て来て、側に居た母にそう尋ねたことがある。母は笑みを浮かべてそうよ――と教えてくれた。

「ルディのファーストネームは初代の当主様から頂いたのよ」

この時まで、私は自分の名の由来を知らなかった。ロートリンゲン家を創設した初代当主は、建国の騒乱のなか、国王を守り、勇敢に戦い抜いた英雄として、本に描かれることが多い。子供心ながら、そんな人物に由来する名前だと知って嬉しくなった。

「じゃあ、僕は?ルディが一代目なら二代目の当主様の名前なの?」
「違うよ、ロイ。二代目の当主様の名前はクラウディウス・エーベルハルト・ロートリンゲンだから……」
「じゃあ三代目?」
「三代目はゴットフリート・ヘクトル・ロートリンゲン。……ハインリヒっていう名前はこれまでの当主様に無いけど……」
「あら、ルディはこれまでの当主様の名前を全部憶えているの?」

子供の頃から本を読むことが好きで、邸に置いてあった本をよく手に取っていた。邸には書庫もあって、其処から引っ張り出して来ることもあったが、父の書斎から本を持ち出して来ることもあった。
机の上の書類に触ると叱られるが、書斎にある本を持ち出すことについては、父は何も言わなかった。本を汚してはならないとか、ページを折ってはならないとか、きちんと置いてあった場所に本を戻すとか、基本的なマナーについては五月蠅かったが、父はむしろ私やロイに数多くの本を読むよう勧めていた。欲しいと言った本は必ず手に入れてくれた。

尤も、父の書斎にある本は、六歳の子供にはまだ読むことの出来ない難しい本ばかりだった。しかしそうした本のなかから、読める文字だけを追って眺めていくのは面白かった。ロートリンゲン家の歴代当主の名前を暗記していたのも、父の書棚からロートリンゲン家に関する本を借りて読み終えていたからだった。

「初代当主様から父上まで全部言えるよ」
「僕も……父上と御祖父様の名前なら言えるよ」
この頃、ロイとは些細なことで競い合っていた。年齢が一歳しか差が無かったこともあったのだろう。子供らしい、他愛の無い張り合いだった。そういう時には決まって、母は私とロイの返答に微笑んで、二人とも偉いわね――と言ってくれた。
「ロイのファーストネーム、ハインリヒという名前には一族を統べるという意味があるの。貴方は大きくなったらロートリンゲン家を継ぐことになるから、立派な跡継ぎとなるようにという意味をこめて、父上がハインリヒという名をつけたの」

少し成長してから、この話を思い出して、納得したことがある。私は誕生してすぐ虚弱体質であることが判明し、ふた月の間は保育器のなかで育てられた。成人するまで生きられるかどうか解らない――そんな状態だったから、父が2番目の男児として誕生日したロイに期待をかけるのも無理は無いことだった。


「ルディ。貴方の名前も父上がつけて下さったのよ。初代当主のように立派で強い子となるように。そして勇猛と讃えられた初代当主が貴方をいつもお守り下さるように」
「父上が僕の名前を……?」
ハインリヒは父が名付けても、私は母だろうな――と子供心ながらに思っていた。だから、父が名付けてくれたことを知った時は驚いた。
「二人ともファーストネームは父上がつけてくださったの。男の子が生まれた、と、とても喜んでね。御祖父様や御祖母様も手放しで喜んだのよ」

祖父はロイが誕生した年に亡くなって、祖母もその後を追うかのように2年後に亡くなった。そのため、ロイは祖父母のことを全く知らない。私も祖父のことは憶えていないが、祖母の記憶は私には少しだけある。手を取って優しく語りかけてくれた記憶――朧気だが、祖母の顔を憶えている。

「じゃあ、ミドルネームは?」
ロイが興味津々と母に尋ねると、二人とも私がつけたのよ――と教えてくれた。
「ロートリンゲン家では必ずミドルネームをつけることになっているの。そして子供の頃はミドルネームで呼ぶことが多いのですって。呼びやすく解りやすい名前が良いと思って、ルディ、ロイと名付けたのよ」
「父上は僕達のことファーストネームで呼ぶよね。アガタもフリッツも……」
「大人になって、いきなりファーストネームに呼び変えるのがお嫌だったみたいで、お父様は二人をファーストネームで呼ぶことにしたの」

この時には父の考えが解らなかったが、大人になってから成程と頷けた。
私とロイは互いにミドルネームで呼び合っているが、それをファーストネームに切り替えることは出来なかった。今更、ハインリヒと呼ぶのは何だか他人行儀のようで、ロイの方が親しみやすい。ミドルネームの方が何だか安心する――と、ロイも言っていた。

それにしても――。
初代当主のように立派で強くなるように、そして勇猛と讃えられた初代当主がいつも守ってくれるように――。
あの父がそこまで考えて私の名を付けてくれたことは、私にとってずっと謎のままだった。

21:37