log

11  フランツ結婚編(3)

02 25 *2010 | 未分類

今迄、恋人が一人もいなかった訳ではない。数えると二人と付き合ったことがある。
二人とも、俺の背負うロートリンゲン家を目当てに近付いて来た。付き合ううちにそのことが解ってきて、俺は彼女達から離れていった。
そんな経緯があるから、簡単には結婚に踏み切れないでいた。また、俺に近付く女性はそんな女性ばかりなのだろうかと、軽い女性不信にも陥っていた。

ユリア――彼女はどうだろうか。俺がロートリンゲン家の人間だと解れば、恋人と別れて俺の許に来てくれるだろうか。
否――、そのような女性なら、俺は伴侶としたくない。
俺は贅沢なのだろうか――。


事あるごとにユリアのことを思い出した。どうしても忘れられなかった。次の休暇にはハンブルクのあの美術館に行こうか――と本気で考えていた。
帝都からハンブルクまで遠い。列車で一昼夜かかる。だがそうしてでも、彼女にもう一度会いたかった。
会ってどうするのか。ただ見ているだけで良いのか――。
彼女には明らかに恋人が居た。それなのに彼女を困らせるような真似をするのか。


悶々とした気持のまま、二週間が過ぎていった。来週末には、フォン・シェリング家のクリスティンと、顔合わせをかねて食事をすることになっている。正直、気乗りがしなかった。だからといって断ることも出来ない。

気晴らしに街に出掛けるか――。
考えていてもどうしようもない。それに、クリスティンと一度会ったところで、そのまま結婚に繋がる訳でもないのだから――。


「フランツ様。どちらへ」
部屋を出て廊下を歩いていると、執事のエリクが声をかけてきた。出掛けて来ると告げると、彼は一礼してお気を付けて行ってらっしゃいませ、と返す。その隣に控えていたパトリックも頭を下げて、同様の言葉を告げる。
こうした光景は普通の家庭では無い光景なのだろう。家に執事や管財人が居るということは、普通の家庭には無いことで、俺は自分の家が特殊なのだということを、学校に入ってから知った。
だから――きっと、俺の妻になる女性はこうした環境に慣れていないと大変なのだろうと思う。
そうなると――、妻となる女性は旧領主家からの女性でなければならないことになる。しかしそう考える自分が堪らなく嫌になる。旧領主家であれ一般家庭であれ、普通の人間ではないか。環境による差だけで、全てを決めてしまって良い筈が無い。

ひとつ息を吐く。今は少し考えるのを止めよう。
何処に行こうか――。
行き先を考えながらも、足は自ずと帝国美術館へと向かっていた。エリクにしろ、パトリックにしろ、私が出掛けると言っても最近は行き先を尋ねることは無い。美術館か博物館だろうと解っているのだろう。確かにその通りなのだが。


帝国美術館へは大通りを真っ直ぐ行き、宮殿とは反対の方向に進んでさらにテレーズ通りを左折する。邸からは徒歩30分ほどかかる。とはいえ、近道がある。大通りの真ん中で路地を曲がり、さらに直進し、また曲がる――階段状に路地を進むことで、時間を10分間短縮出来る。いつもその道を通っていた。
今日もそうして美術館に向かっていた。其処は帝都に住む人々のアパートが建ち並んでいて、大通りよりは生活感が漂っている。今日は学校も休みのせいか、子供達は小路の脇にある公園で遊んでいた。
それを横目に歩いていたところ、大きな荷物を抱えてよろよろと歩く人の姿が視界に入った。此方に向かって歩いているが、上半身がその巨大な荷物にすっぽりと隠れていて、両足しか見えない。あれでは視界が遮られて歩きづらいだろうに。
手助けしようと歩み寄った時、公園から飛び出して来た子供達が、その人にぶつかる。途端に、身体が後ろ向きに倒れていく。
後ろ向きに倒れる奴があるか――、慌てて手を出して、その背を支え、転倒を防ぐ。
「あ、ありがとうございます」
「この荷物を一旦、足下に置いた方が良い」
「いいえ、あの……、私よりも少しの間、荷物を支えていて貰えますか?」
女性の声だった。こんな大きな荷物を一人で運んでいたのが女性だったとは。
どうやら大事な荷物らしい。女性は自分を支えるよりも荷物を支えてほしいと告げる。とはいえ、このまま手を放したら女性は間違いなく転倒してしまう。そこで、女性の背を右手で支えたまま、左手で四角い大きな荷物を持った。
厳重に包まれた四角い大きな荷物――、それはキャンバスのようだった。誰か高名な作家の絵なのだろうか。
「ではこうして荷物を持って支えているから、このまま背を起こせるか?」
はい、と女性が返事をする。間近に顔があるだろうに、キャンバスのようなこの大荷物に阻まれて顔を見ることは出来ない。女性は身体を起こす。女性を支えていた手が空いた時、彼女に代わって、その荷物を持った。
「これを横に倒すから、君は其方を持って」
「あ、はい。ありがとうございます」
縦に持っていた荷物をゆっくりと倒すと、女性の手がその端に伸びてくる。そしてそれを共に下ろしていく。
その時、初めて女性の顔が見えた。

瞬間、私の方が荷物を取り落としそうになった。
見間違いかと思った。

「あ……!」
女性は眼を丸くして此方を見つめた。
驚いたことに――、それはユリアだった。帝都から遠いハンブルクで出会った女性とこの帝都で会うことになるとは――。

21:55

10  フランツ結婚編(2)

02 24 *2010 | 未分類

「フランツ。そろそろ貴方も身を固めなくてはいけませんよ。今年29歳、来年はもう30歳です。のんびり構えていては、良縁も逃げてしまいます」

ハンブルクでの出張を無事に終えて、帝都に戻ってきたこの日の夕食後、リビングルームで珈琲を傾けていた時のことだった。家族で語り合うこの時間に、母の小言が始まった。

「まあ……、縁があれば……」
「心に決めた方が居るということも無いの?」
「……全く」
「休暇となれば美術館やら博物館にばかり出掛けて……。もう子供がひとりぐらい居ても良い年ではないですか」
この家に生まれたからには、跡目を残すことが一番大事なことなのですよ――と、もう何度も何度も聞かされた言葉を、また聞かされる。


来年には30歳になる。両親が焦り始めるのも無理も無い。
俺とて解ってはいる。
ロートリンゲン家の次期当主として、そろそろ身を固めなければならないことも。
それを拒むつもりもない。いつか相手が現れる……と、いつも考えている。ただその相手がなかなか現れないだけだ。


「フランツ。お前の話によると、今、付き合っている女性は居ないということだな」
いつもは母の小言を聞いているだけの父が、今日はそう問い掛けてきた。母の話の切りの良いところで部屋に行こうかと思っていたのに、これではこの場から逃げられないではないか――。
「はい。まあ……」
「ロートリンゲン大将は女性よりも美術品を好むという噂が流れていると聞いたぞ」
「……そんな噂が何処から……」
「美術館ばかりに足繁く通い、偶に社交界に参加しても女一人連れていないようでは、そうした噂が立つ」

恋愛というだけならまだしも、結婚ということになると、そう容易く決められるものではなかった。これから一生共に過ごすことになるのだから――。
ふと、ハンブルクで会ったユリアという女性が思い出された。彼女はあの男とゆくゆくは結婚するのだろうか。

「相手が居れば断るつもりだったが……、居ないのならば一度会ってみると良い」
「……あの、父上。何のお話ですか……?」
このうえなく嫌な予感がする。
「ルートヴィヒ・フォン・シェリングが先日、お前に縁談の話を持ちかけてきた。彼の長女、クリスティンとの縁談だ」
フォン・シェリング家の長女クリスティン――。
一度会ったことがある。社交界でとびきり飾り立てていた女性だ。まだ俺よりも大分若い筈だが――。
「クリスティンは今年20歳になったばかりだが、ルートヴィヒによると、どうやらお前に気があるようでな。……お前に相手が居るかどうか尋ねてからということにしてあるが……」
「20歳ではまだ若いですし……」
「まあ、フォン・シェリング家ならば良い話ではないですか」
母上がここぞとばかりに声を挙げる。父上は頷きながら、しかし少し考え込む風で言った。
「だが我が家とフォン・シェリング家が結びつくと、旧領主層の均衡が崩れてしまわないかということが気にかかる。ルートヴィヒはどうもそれを狙っているようだからな」
「俺も父上の意見に賛成です」
「お前は単に自由を謳歌したいから結婚を拒んでいるだけだろう」
「いえ、決してそのようなことは……」
「どうする。これを縁と思って、クリスティンと会ってみるか?当人同士の気が合わなければそれで構わん」
困ってしまい返答に詰まっていると、母がその約束を取り付けるよう父に促す。
この日の珈琲は随分苦く感じられた。

21:27

9  フランツ結婚編(1)

02 23 *2010 | 未分類

妻と――ユリアと出会ったのは、私が29歳の、大将となってまだ1年目の頃のことだった。邸と本部を往復しながら、休日には美術館へ行くのを趣味としていた。そんな日々を送っていたから、その頃には恋人も居なかった。

「閣下。どちらへ?」
ホテルの一室を出たところで、少将から声をかけられる。帝国北部の町、ハンブルクで開催された会議の全日程を終え、皆が一息吐いたところだった。
今からの時間は自由時間となる。美術館の開館時間にはまだ間に合う。此処まで足を運んだのなら、是非見ておきたいところがあった。
「美術館まで出掛けてくる。7時頃には戻ってくるから、卿も自由時間を満喫しろ」
「……また美術館ですか。本当にお好きですね」
「卿も来るか?」
「いいえ。遠慮しておきます。では気を付けて行ってらしてください」

軍務省には美術品に興味を示す者が少ない。少ないどころか居ない。じっくりと絵や工芸品を見るのは、胸が弾むものではないか――そう思うのに、皆は全くそれを理解してくれない。まあこういうものは一人でじっくり楽しむに限るが。


ハンブルクには有名な美術館がある。一度は行ってみたいと思っていたところだった。今は午後4時で開館時間は5時までだが、幸いにしてホテルから車で5分しかかからない。
美術館に到着するとすぐにチケットを購入し、展示室へと急いだ。こういう時は自ずと足が速まる。

特別展も同時開催しているようだが、全てを見て回るには時間がない。それに特別展なら帝都でも開催されるだろう。
今回は常設展のみを見て回ることにした。人は斑で、この様子なら閉館時間まで、ひとつひとつの作品をゆっくり見ることが出来そうだ。
一点一点をじっくりと眺めていく。
そうして――、時間が過ぎゆくのも解らないまま、時が過ぎていった。

全ての作品を見終えて、ふと周りを見渡した時には、客は誰も居なかった。腕時計を見ると、閉館時間の5時は疾うに過ぎている。5時どころか6時になろうとしていた。慌てて出口へと向かった。ちょうど其処でこの美術館の学芸員だろうか、一人の女性がテーブルの上の図録やパンフレットを整理していた。
「閉館時間を過ぎてしまって済まない。今すぐ出……」
その女性が此方を振り返る。
白い肌、長い睫に彩られた瞳、ふっくらとした仄かに赤い色の唇。その唇が弧を描く。
綺麗な――女性だった。
「どうぞごゆっくり御覧下さい。入館を締め切っただけですから」
鮮やかな絵を見ているようだった。決して飾り立てている訳ではなく、自然と美しさが備わっているような――。
「あの……何か……?」
「あ、いや。済まない。あ、その図録を頂こう」
何をこんなに動揺しているのだ――自分自身にそう言い聞かせても、胸の高揚は止まらなかった。この美術館の学芸員であろう女性はにこやかに応えて、手許から図録を一冊取り上げる。彼女のひとつひとつの動作に釘付けになった。

こんなことは初めてだった。
帝都でもこんなに綺麗な女性を見たことが無い。飾り気の無い、自然体の美とでもいうのか。社交界での女性は着飾りすぎて、毒々しく見えることもあるのに。

「……あの……」
購入した図録を受け取り忘れて、慌てて手を出す。女性は微笑みながら、ありがとうございます、と言った。
せめて――、せめて名前だけでも聞いておくべきか。見知らぬ男に名を聞かれたら、嫌がるだろうか。
「ユリア」
背後から声が聞こえてくる。振り返ると彼女と同じ年齢ぐらいの男が歩み寄って来た。
ユリア、と呼ばれた女性は待っていて、と告げる。
恋人なのだろう――。
この瞬間、俺は酷くがっかりしてしまった。だが考えてみればこれだけ綺麗な女性だ。恋人が居ないということはあるまい。
たったこの数分の間に恋に落ちて、一瞬に静まってしまったようだった。ありがとうございました、と笑みを湛えて告げる女性を背に、ホテルへと戻っていった。

21:44