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8  教育方針~執事フリッツ所見(3)

02 21 *2010 | 未分類

「いいえ。私はまったくその意志は御座いませんので……。はい。身に余るお話をありがとうございました。え?……いいえ、私は出来ることなら此方のロートリンゲン家に一生勤めるつもりですので……」

フォン・シェリング家から執事にならないか――と引き抜きの連絡が来たのは、1時間前のことだった。それからずっと、電話口で拘束されていた。相手がフォン・シェリング家であるがために、すぐに電話を切ることも出来なかった。

ちょうど机の上にあった書類を片付けながら、電話に対応した。まったくフォン・シェリング家は何を考えているのか。家人の引き抜きなど、家同士が揉め合うだけだろうに――。
丁重に断って電話を切ることに成功した。給金を現在の倍額出すと言っていたが、私はフォン・シェリング家には全く気が向かなかった。


「フリッツ」
背後から呼び掛けられて驚いて振り返る。一体いつから其処にいらしたのか――旦那様が扉の前に立っていた。
「お呼びいただければ此方から参りましたのに……」
ロートリンゲン家では、使用人の職種ごとに執務室として一室が与えられている。執事を務める私の部屋に、旦那様はわざわざやって来た。
「今の電話、引き抜きか?」
「はい。フォン・シェリング家から……」
「フォン・シェリング家か。……またあの家は何か良からぬことを考えているのではないだろうな」
「両家の関係がありますから、こうした引き抜きはあまり感心出来ませんが……。丁寧に断ったつもりですが、フォン・シェリング家から旦那様に苦情が入るかもしれません。申し訳御座いません」
「その時は此方が言い返す。お前が気に病むことは何も無い。……それよりも」
旦那様は私を見つめ、表情を緩める。
「一生勤めるつもりだと言ってくれたな」
「はい。私はそのつもりで仕えております」
「ありがとう」
旦那様は笑みを浮かべて言った。

厳しい方だが、旦那様の垣間見せるこうした優しさに惹かれた。御子様方が立派にご成長された今でも、相変わらず厳しいが、それも根本に優しさがあってのことなのだと、私には解る。

「フリッツ。今度ユリアとハンブルクに1週間程行って来ようと思うのだが、日程の調整をしてほしい」
旦那様はつい先日、軍務省を退官した。これからは悠々自適に暮らす――と宣言した通り、奥様と共にお好きな美術館や博物館を巡り歩いたり、本を読んだりして過ごしている。今の生活を何よりも楽しんでいるようだった。
「解りました。……今月であれば面会の御予定も少ないですから……」
このロートリンゲン家には、投資の相談を持ちかけてくる人々も沢山いる。軍務省を退官したとはいえ、旦那様の仕事は山のようにあった。
「月末か。ではそのように整えてくれ」

私はこの家を気に入っていた。今の倍以上の給金を貰うよりも、ずっとこの家でお仕えしたいと思っている。
きっと私は父のように死ぬまでこの家に仕えるだろう。大変な仕事なのに、亡き父は一度も仕事がきついという言葉を言わなかった。
その理由が、今になって解ったような気がする。

21:35

7  教育方針~執事フリッツ所見(2)

02 20 *2010 | 未分類

「怒られる……?」
フェルディナント様とハインリヒ様は、今にも泣きそうな顔で私を見上げる。
大丈夫――と言って差し上げたいが、よりにもよってこのランプか――。
ちょうどその時、使用人が着替えと掃除道具を持って現れた。彼女はこの惨状を見て、唖然とした。無理も無い。彼女に促して、まずは二人を着替えさせることにした。

旦那様がこの惨状を見たら――。
怒る――だろう。このランプは一番大切になさっていたものだ。ランプを磨いている姿を見かけることも何度かあった。そういう時に側に行くと、ランプの話を一時間は聞かされることになる。
まずい。
かなりまずい。

「……何をなさっていたら、ランプが壊れたのですか?」
「ロイとね、追いかけっこして遊んでいたらあの台にぶつかって……。そうしたらランプが落ちてきて……」
そう言えば――、先程も廊下で遊んでいる二人を見かけた。フェルディナント様は今日は具合が宜しいのだな――と思っていたのだが。
「もうすぐ旦那様がお帰りになります。その時に……」
旦那様のお帰りです――と使用人の声が聞こえる。二人の顔が一気に強張る。きっと私も顔を引きつらせただろう。

そして不運なことに今日は、奥様とミクラス夫人が不在だった。奥様の故郷であるハンブルクへと所用があって、昨日から出掛けていた。こんな時に奥様がいらっしゃれば、まず奥様に話をして旦那様に口添えを頼めるものだが――。

「フェルディナント様、ハインリヒ様。私も一緒に旦那様の許に参りますので、きちんと謝りましょう」
二人は項垂れる。怒られることが解っているから、二人共が大きな眼を潤ませていた。まず私は旦那様の迎えに向かった。

「お帰りなさいませ」
「ただいま。子供達は?」
奥様が不在だから、御子様達のことを気に掛けていたようだった。どう切り出そうか、旦那様の様子を見てからと思っていたが、こうなると先に話さざるを得ない。
「旦那様。お話が御座います。あの……、気を落ち着けてお聞き下さい」
「どうした?フェルディナントが具合を悪くしたのか?」
「いいえ、その……。リビングルームに置いてあった旦那様のお気に入りのランプのことですが……」

ランプが割れたことを伝えると、旦那様は次の言葉が出ない様子で立ち止まった。何故割れたのだ――と問い返されたのは、数十秒後のことだった。

「申し訳御座いません。私もお二人が遊んでいるところを見ていたのですが、注意に至らず……。ランプを置いてあった台に身体があたり、ランプが落ちてしまったとのことです」
旦那様はすぐにリビングルームへと向かった。扉を開け、砕けたランプを瞬きひとつせず見つめる。
「父上……」
フェルディナント様とハインリヒ様が揃って旦那様の許に歩み寄る。涙ぐんだ声で、ごめんなさい、と頭を下げて謝る。
「……怪我は?ガラスに触れなかったか」
旦那様は静かな口調で二人に向かって言った。二人とも頷いて、旦那様を見上げる。
「着替え……、ああ、もう着替えさせたのか。……フェルディナント、ハインリヒ、何故こうなったのか話してみなさい」
フェルディナント様が私に話したのと同じことを旦那様に語る。部屋の中で走り回っては駄目だ、と旦那様は言った。
「はい……。ごめんなさい……」
「反省したら、二人とも部屋に行っていなさい。この部屋を片付けなければならないから、それまで此処に来ては駄目だぞ」
二人はもう一度返事をして、部屋を後にする。


意外にも――、ランプを壊したことを怒らなかった。使用人が掃除道具を持って、歩み寄る。旦那様はガラスの破片を掃き出そうするのを見て、待ってくれと制した。
「手袋を持って来てくれ。私がやる」
「危のう御座います。すぐに片付けますので……」
「いや、破片を集めておきたいんだ。オスカーに頼んで修復して貰うことにする。……まあ見事に砕けたものだが……」
「申し訳御座いません。注意を怠りました」
「いや……、あの年頃の子供だ。家の中のものを壊すのは仕方が無い。……それに形あるものはいつか壊れるとも言う」
「旦那様……」
「残念だが、このランプの運命ということだろう。まあ、元通りにはならんだろうが、多少の修復は可能だ」
旦那様は屈んで、ランプを見つめた。追いかけっこか、と苦笑を漏らす。
「旦那様?」
「フェルディナントの体調が良かったのだろう。あの年頃の男の子が二人揃えば、走り回るのは当然だ。寒いから庭に出てはならないとも言ってあったからな」
仕方が無い――。
そう呟いて、旦那様は静かにランプの欠片を拾い始める。お気を付けて下さい――そう言いながら、私もそれを手伝う。大小の破片をひとつひとつ袋にいれていく。旦那様は軍服を着替える前に、それを行った。

美術品を好む旦那様のこと、もっと御子様方を怒るかと思ったが、意外にもランプを壊したことについては怒らなかった。まるでただコップや花瓶を壊したかのような対応で、淡々としていた。


その晩のことだった。旦那様はまだ寝室に入っていらっしゃらなかったので、お休みになるよう促すために部屋に行った時、部屋のなかから声が聞こえて来た。

「ああ、多少傷は残っても構わない。元のランプの形は写真に撮って残してある。破片は出来る限り拾ったから……。ああ、そうだな、結構派手に壊れた。二人はフリッツがすぐに着替えさせてくれたようだ。何処にも当たっていないと言っていたから、大丈夫だろう。……いや、叱ってはいない。心臓が止まるかと思ったほど、驚かされたがな」
どうやら電話中らしい。電話の相手は奥様のようだった。
「貴重なランプだっただけに惜しいがな。まあ、元気の良い証拠だ。フェルディナントも珍しく走り回っていたという。……ああ、体調のことなら大丈夫だ。二人揃って悄げていたが、明日には開き直っているだろう。……ではユリア、済まないがオスカーに頼んでみて貰えるか。時間はかかっても構わないと」
私は旦那様の部屋の前をそっと離れた。電話が終わればお休み下さるだろう。ランプのことはやはりショックだったに違いない。
「ゆっくり羽を伸ばしておいで。故郷に帰ったのも久々だろう」
奥様を気遣う旦那様の言葉が小さくなって聞こえて来る。相変わらず、仲の良い御夫婦だった。
だが――、旦那様の教育方針が少し解ったような気がした。

14:07

6  教育方針~執事フリッツ所見(1)

02 19 *2010 | 未分類

旦那様は気難しい、厳しい方だとフェルディナント様やハインリヒ様は言う。確かに厳しい一面はあるが、理由無く叱りつけることはない。分け隔て無く公正な方で、使用人達にも慕われている。

私は父親の後を継いで、このロートリンゲン家に仕えている。大学を卒業した直後――、22歳の時にロートリンゲン家に入ったから、もう19年になる。
元々、執事という父の職業を継ぐつもりはなかった。何処かの会社に就職しようと考えていた。しかし、父は私に後を継いでほしかったようで、何度となくこのロートリンゲン家に連れて来られ、旦那様や奥様の前で挨拶をさせられた。旦那様の前で失礼のないように――それが私の父の口癖だった。
その父が、私が22歳の時――あれは暑い日のことだった――仕事に行って来るといつも通り出掛けようとした矢先、玄関先で倒れた。すぐに病院に向かったが、脳溢血でそのまま帰らぬ人となった。

『もし君が良ければ、執事となってくれないか』
旦那様からそう頼まれたのは、父が亡くなって2週間が経った時のことだった。私はまだ就職も決まっていなかった。かといって、父の仕事がどれだけ大変かということは良く知っていた。随分悩んだが、結局父の職業を継ぐことにした。


ロートリンゲン家は帝国でも有数の名家だった。名家という意味では、5本の指に入る。財力だけ見れば、1、2位を争うだろう。そのロートリンゲン家に仕えるのは、実は名誉なことでもあった。
後から聞いた話だが、父が亡くなった直後に十数人が執事となりたいと名乗りを挙げて、ロートリンゲン家にやって来たのだという。なかには執事としてなかなかの経歴を持った者もいたらしい。給金が高いということもあるだろうが、そればかりではなかった。他の使用人達の間に陰険な確執も無く、旦那様がたも暖かい。働くための環境としてはこの上ない――当時から管財人を勤めていたパトリックは私にそう言った。

その頃の私はまだその理由が解らないままだった。旦那様の機嫌を損ねないように気を配りながら、仕事に追われる毎日だった。気遣いが至らなくて、旦那様から叱られたこともある。今となれば、そうして叱ってくれたからこそ、今の私があるのだと思える。

旦那様と奥様の仲は非常に良かった。仲睦まじい御夫婦だった。一方、御子様がたには非常に厳しい。特に長男のフェルディナント様には厳しくて、きつい言葉を浴びせる様を何度となく見かけたことがある。それに少し反感を覚えることもあった。フェルディナント様のお身体が弱いから、虐げているのだろうか――そう考えたこともある。

パトリックにそれを尋ねると、確かに御子様達に厳しいがそれは違う――と笑って言った。旦那様は少々誤解されやすい節もあるから、じっくり観察してみると良い――パトリックは私にそう言った。

それが何となく解ったのが、私がロートリンゲン家に勤め始めて一年目のことだった。同時に、パトリック達が「この上ない環境」だと言っていた意味も解った。確かにこのロートリンゲン家は使用人が働くにしても、御子様達が育つにしても、良い環境だった。

ガチャン。
大きな音がリビングルームから聞こえて来た。もうすぐ旦那様の御帰宅の時間だ、と時計を確認しながら歩いていたところだった。今の音は何か大きなものが割れたような音だったが――。
窓は防犯用のガラスを使用しているから、そうそうに割れるものではない。では今の音は何を割った音なのか。あの部屋には旦那様のお気に入りの大きなランプがあるが――。
まさか――。

リビングルームに行くと、フェルディナント様とハインリヒ様がはっと顔を上げて此方を見た。床に屈んだ二人の足下には、ガラスの破片が散乱していた。
「触ってはいけません!お二人ともすぐに離れて!」
二人共が立ち上がる。ばらばらとガラスの細かな破片が舞い落ちる。その様子から察するに、どうやらガラスを全身に浴びたらしい。怪我は無いか、まず確かめた。
「御怪我は?何処か痛いところは?」
「大丈夫。僕もロイも当たってないから……」
二人の身体を払う。ガラスの破片が身体に付着しているかもしれない。膝から下にかけて少し破片が付着していたが、腰から上の部分には何の破片もついていなかった。
「今、服を用意します。そのまま動かないでお待ち下さいね」
部屋の片隅にある電話台に行き、使用人の控え室に連絡を入れる。二人の着替えをリビングルームに持って来るように、そしてすぐに掃除道具を持って来てくれと告げて、電話を切る。
「フリッツ……。どうしよう……。父上のランプ……」
「え……?」
フェルディナント様が不安そうに床を見つめる。割れたガラスの正体に私が気付いたのはその時だった。瞬間、言葉を失った。

旦那様のお気に入りのランプ――、それが無残にも割れていた。
『この技巧は彼にしか出来ない技巧でな。彼が亡き今、このランプは世に二つと無いものだ』
旦那様の言葉が頭のなかをぐるぐると回る。このリビングルームにはいくつかの美術品が置いてあるが、そのなかでも一番お気に入りのものだった。それを知っているだけに、愕然とした。

21:47