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44  学校編【1】~父の覚悟(1)

04 18 *2010 | 未分類

「フェルディナントはまた部屋から出て来ないのか?」
「ええ……」
数日前から、フェルディナントはリビングルームに姿を現さない。此処に来るのを、具合が悪いと言って拒み続けていると言う。人工呼吸器を装着されてからは、それまで以上に元気が無かった。今日も出て来ないとは――。
「部屋に篭もりきりも良いことではない。連れて来る」
「僕も行く!」
「フランツ、今はそっとしておいてあげて」
ユリアが何か言いたそうに此方を見上げる。ハインリヒは既に私の足下で、ルディの許に行こうと促していた。
「ロイ、ルディは少し具合が悪いから今日は寝かせておいてあげてね」
「駄目なの?」
ユリアに言われ、ハインリヒは不満そうな顔をする。ユリアは頷いて、また明日ね、と諭すように告げる。
「ハインリヒ。学校の宿題は済ませたのか?」
「う……うん」
嘘だ。嘘に決まっている。眼が泳いでいるではないか。
「嘘を吐くな。まだ済ませてないのだろう。自分の部屋で済ませてきなさい」
後でやる、というハインリヒをひと睨みすると、ハインリヒは返事を残してこの部屋を去っていく。アガタを呼び、ハインリヒの勉強を見張ってもらうよう頼んでおいた。ユリアはその時、ロイをルディの部屋に行かせないようにして、と告げる。
「何かあったのか?」
「相当参っているみたいで……」
「部屋から出て来ないのはそのためか」
「あのルディが大泣きしたのよ」
ユリアがフェルディナントの部屋に行った時、フェルディナントは声を押し殺して泣いていたらしい。どうして僕だけが、と。そして学校に行けないことに対しても。
「……学校どころではないだろう。今の身体は……」
フェルディナントの身体は学校に行けるかどうかという問題の前に、明日も生きられるかどうかという深刻な状態に陥っている。呼吸停止までの進行があまりに早くて、このままではいつ心臓が停止するか解らないと、トーレス医師に宣告されている。そんな身体だというのに――。
「……生きていられないかもしれないって、ルディは気付いているのよ……」
フェルディナントは聡い子だ。此方が病気のことを隠していても、周囲の反応で気付いたのかもしれない。
「今日の診察でトーレス医師は何か言っていたか?」
「心臓にはまだ異常は無いって……。でも突然ということもあるからと……」
ユリアは俯いて、涙を流した。隣に腰を下ろし、その身体を抱き寄せる。私の胸のなかで、ユリアは泣き崩れた。
「あの子だけ、どうして……」
「ユリア……」
「歩くことも、食べることも出来なくなって、呼吸すらも……。何故、あの子だけがこんな目に……」


フェルディナントの具合は一向に良くならなかった。
薬がまるで効かない。強い薬を使うと、今度はフェルディナントの身体が副作用を起こして衰弱する。何度も薬を変えた。トーレス医師も尽力してくれたが、フェルディナントの病状に改善の兆しは見られなかった。
そしてついに、心臓が弱り始めた。発声すらも苦しそうで、寝たきりの状態になった。それでも出来る限りリビングルームに連れて来るようにした。そうでなければ、フェルディナントは一人で篭もる。そうなると物事を悪い方向にしか考えなくなるから、治るものも治らなくなる。

この日もフェルディナントを半ば強引に、リビングルームへと連れてきた。フェルディナントは私とあまり顔を合わせたく無さそうに、何度か視線を逸らした。動くことの出来ないフェルディナントとは対照的に、ハインリヒは元気良く部屋を動き回っている。フェルディナントがその様を見つめる時、酷く悲しい顔をしていた。
確かに今のフェルディナントに、ハインリヒの姿を見せるのは残酷かもしれない。だが、一人で部屋に篭もることの方が、余程酷なことに私には思えた。

フェルディナントはリビングルームから外を眺めていた。このふた月あまり、フェルディナントは外に出ていない。
「……フェルディナント。少し外を散歩するか?」
私がそう告げると、フェルディナントは驚いたような顔をした。今となってはあまり表情も無いが、驚いた様子だということは解る。
「フランツ、外は……」
ユリアが駄目だと言わんばかりに困った顔をする。フェルディナントの体質は環境が原因だから、あまり外に出てはならないと、子供の頃から医師に言われてきた。
そんなことは解っている。だが――。
「少しぐらいなら気晴らしになる。太陽の光も少しならば影響は出まい」
フェルディナントの身体をソファから抱き上げて、車椅子に座らせる。身体から伸びている人工呼吸器や管の一式を車椅子に取り付けてゆっくりと動かすと、ハインリヒが窓を開けた。

外に出ると、フェルディナントの眼は庭を一望してから、空を見上げる。ユリアがすぐに日傘を持って出て来る。そしてフェルディナントの上に日傘を翳した。
「ユリア。それでは空が見えなくなる」
「強い陽射しの下に出ては駄目だと、トーレス医師が仰っていたではありませんか」
「五分ぐらい大丈夫だ。空を見せてやれ。こんな良い天気だ」
「フランツ……」
「大丈夫だ。そうだろう? フェルディナント」
フェルディナントがゆっくり頷く。ユリアが傘を畳むと空を凝と見て、蒼い、と一言呟いた。

ああ――。
この子は――。
考えてみたら、こうして空を見ることもあまり無かった。いつも家のなかで――。

ゆっくりと車椅子を進めていく。ハインリヒが側にやって来て、虫を捕ったと嬉しそうにそれを見せる。ハインリヒはまた木の下に走っていく。
フェルディナントのそうした姿を、一度は見てみたいものだと何度思ったことか――。この頃は少しずつ元気になってきたと思っていたところだったのに、こんな状態になるとは――。
病気が発覚した時、トーレス医師は薬で治ると言っていた。ところが、その薬はフェルディナントには一向に効き目がなく、病状は日増しに悪化していった。自力で呼吸が出来なくなった時、トーレス医師は最悪の事態を覚悟するように言った。薬の効き目がこのまま表れなければ、一年保つかどうか解らない――と。
フェルディナントはまだ11歳になったばかりだった。まだそれだけしか生きていない。それなのにあと一年保つかどうか解らないとは――。
成人を迎えるまで、生きられるかどうか解らないとは言われ続けてきた。たとえそれを乗り越えたとしても、40歳までしか細胞が耐えられないということも解っている。
だが11年で生涯を閉じるにはあまりに――短すぎるではないか――。
命を大切にするように、出来るだけ長く生きられるようにと、身体を労り、外出も控えさせてきた。だから学校にも行かせなかった。
だがこんなことなら――。
たとえ命数が短くなったとしても――。
自由に好きなことをさせるべきだったか――。

フェルディナントが少し咳込む。ユリアがそっと胸を摩った。
「フランツ」
「解った。そろそろ家に入ろう」
フェルディナントは凝と空を見つめていた。窓からリビングルームに入るその時まで、ずっと。

21:19

43  学校編【1】~ルディの切望(3)

04 17 *2010 | 未分類

「ルディ、ただいま!」
ロイの声が聞こえる。眼を閉じて枕に顔を埋めた。ぱたぱたという足音と共に、ルディ、とロイが呼び掛けてくる。
「ルディ、寝てるの?」
応えなかった。寝たふりをした。
「ねえ、ルディ。起きようよ」
ロイの手が頬に触れる。それでも寝たふりをした。
ロイと話をしたくなかった。
「ねえ、ルディ。ルディってば!」
五月蠅い――。
放っておいてほしいのに――。
ゆっくり眼を開けると、ロイはあ、起きた、と無邪気な声を出した。
「あのね、ルディ。これ見て!」
ロイはひょいとファイルを出して、それをぱらぱらと巡る。五枚ぐらい捲って、そのページを僕の前に開く。
「この前、課外授業で描いた絵、先生に褒められたんだよ」
そう、良かったね――きっとロイはそう言ってもらいたいのだろう。
解っているけど、言えない。羨ましくて――。
「これね、色を塗り終えたらコンクールに出すんだって!」
僕だってこんな身体でなければ、学校に行けた。課外授業に参加して絵を描けた。運動をすることも出来た。
「ねえ、ルディ。下に行こうよ」
「……具合が悪いからいい……」
「ちょっとだけでも行こうよ。フリッツ呼んでくるから」
「いいから、ロイも下に行って!」
「ルディ……」
苛々していた。泣きたくなってきた。早く下に行ってほしい。
「……じゃあ、下に行くから……。ルディも具合良くなったら来てね」
ロイは動けない私に自慢しにきただけだ。私は学校にさえ行けないのに――。
口惜しい。
口惜しい――。

「……ふ……っ、ぇ……っ」
悲しくて涙がこみ上げてくる。枕に顔を埋めて涙を拭く。涙が止まらない。
何で僕はこんな身体で生まれてきたんだろう。
どうせもうすぐ死ぬのに。
もうすぐ……、死ぬのに――。

「うっ……、うっ……ふぇ……っ」

何で僕だけ――。
何も悪いことしていないのに――。

「ルディ。少し起きましょう」
母上の声が聞こえる。涙を押し隠す。でも涙が止まらなかった。
「ルディ?」
母上の手が肩に触れる。泣いているところを見られたくないのに――。
「ルディ、どうしたの?」
母上が優しく肩を撫でる。泣いた顔を見られないように、顔を上げなかった。
「ルディ。身体を起こすわよ?」
「いや……っ」
「ルディ?」
嫌だと言ったのに、母上が身体を抱き起こす。暴れることも出来なくて、泣いたままの顔で母上を見る。母上は驚いて、どうしたの――と言った。
僕を抱いて、優しく抱き締めながら。
優しく――。
「何で……っ」
母上はまるで赤ん坊を抱くように僕を抱く。暖かくて――。
悲しくて――。
「何で……っ、僕だけ……っ」
涙が止まらない。何で――。何で僕だけ、こんな目に――。
「ごめんね、ルディ……」
「母……上……?」
「丈夫に産んであげられなくてごめんね……」
違う――。
母上が悪いんじゃない。
母上のせいじゃないのに――。
解っているのに――。

単に僕の我が儘だって解ってる。解っていても――。

「学校……、行きたい……」

無理だと解っていても――。

「ルディ……」
「ロイの……っ……、ように……っ! 僕、ずっと……」
「具合が良くなったら学校に行けるからね。ルディ、それまで……」
「いやだ……っ! すぐ行きたい……っ」
「ルディ……」

私はあの時、母上の胸のなかで声を挙げて泣いた。
母上は必ず良くなるから――と慰め続けた。しかし、慰められると余計に悲しくなって、泣き疲れるまでずっと泣き続けた。

20:52

42  学校編【1】~ルディの切望(2)

04 16 *2010 | 未分類

明日には良くなる、良くなると思っていた。
けれど――、やっぱり良くならない。
僕はこのまま死んでしまうのだろう。学校に通うことも出来ずに――。
「ルディ。具合はどう?」
母上の声が聞こえる。今は誰とも話をしたくなくて、枕に顔を埋めた。
「具合が良ければ、起きてリビングルームに行きましょう。ね?」
「……いい……。寝てる……」
声を出すと、喉に取り付けられた人工呼吸器からも息が漏れる。こんな機械、取ってしまいたいとさえ思う。
取ったら息が出来なくなって死んでしまうけど――。
こんな身体、嫌いだ――。
「あと少しでロイも帰ってくるわ。ね?少しだけでも……」
ロイ――。
ロイが羨ましい。
けれど羨ましさのあまり、嫉妬してはならないのだとよく言われる。父上に一度酷く叱られたことがあった。
でも――。
羨ましい――。
羨ましくて、口惜しくなるから、今はロイに会いたくない――。
「具合が良くなったら呼びなさい」
無言で頷き返すと、母上は頬に軽く口付けて部屋を去っていく。

それは11歳の時のことだった。
ある朝、身体がだるくて仕方が無くて、起き上がることが出来なかった。その時はまさか深刻な病気だとは思わなかった。ミクラス夫人や母も風邪の引き始めだろうと言っていて、その日はゆっくり身体を休めた。トーレス医師も風邪に違いないから、栄養を取って眠るようにと言っていた。
しかし、その倦怠感は翌日になっても翌々日になっても治らなかった。風邪にしては発熱することもなく、倦怠感以外の症状は何も無い。何とかベッドから起きても、だるさのあまり起きていられない。異常な症状が数日続いて、検査を受けた結果、風邪ではなく筋萎縮の病気だと判明した。
それがどんな病気なのか、詳しいことについては教えてくれなかった。だが、トーレス医師も母上も父上も皆が慌てていたから、悪い病気なのだということは解った。

病気だと判明してから、すぐに治療が開始された。何種類もの薬を飲んだ。あまりに薬が多くて飲みきれなくて、何回かに分けて飲んだ。食事の後は必ずそれを飲まなくてはならなくて、私は嫌で堪らなかった。それでも治すために頑張って飲んだ。辛い注射や点滴にも耐えた。

しかし――、症状は悪化する一方だった。手足が徐々に動かしづらくなり、身体の自由が利かなくなる。発病して一ヶ月が経つ頃には、自力で歩くことが出来なくなった。トーレス医師の判断で、薬を変えることになった。だが今度は、その副作用で物が食べられなくなった。それに、走ってもいないのに息切れがするようになり、鼻から酸素を送りこむ装置が手放せなくなった。その装置は煩わしくて嫌いだった。

だがそうしてでも、何とか自分で呼吸が出来ていた頃は良い方だった。
二ヶ月が経とうとしていたある日、起きた時から頭が茫としていたことがあった。苦しいような、しかしそれよりも身体が重くて、起きていられなかった。
眠り続け、次に眼が覚めた時には、喉に人工呼吸器が装着されていた。自力で呼吸することが出来なくなったため、気道切開の手段を取ったらしい。シューシューと音を放つその機械は、声を出しても其処から息が漏れてくる。トーレス医師に外してほしい――と言ったら、医師は首を横に振って、外したら息が出来なくなってしまいます――と返された。
絶望の淵に立たされた気分だった――。

起きることも立ち上がることも息をすることさえも、出来ない身体になってしまったことで、死ぬんだな――と漠然と感じ取った。
呼吸が出来なくなる三日前のことだった。話をすることさえ億劫に感じるようになっていた。後になって考えてみれば、あれも自分で上手く酸素を取り込めなかったからだろう。
動けなくなってからは、母上やミクラス夫人が車椅子で部屋から外に出してくれ、夜になるまで家族全員の集まるリビングルームで過ごしていた。
だが、口を開くのもだるくて、そんな状態で家族の輪のなかに居るのが辛くて、部屋に閉じこもるようになった。
そうして部屋で一人ベッドに寝ていると、無性に悲しくなり、物事を悪い方向に考えてしまうもので――。

薬も効かないということは、治る見込みも無いのだろう。心臓もそれほど強くないから、きっと次は心臓だ。そして心臓が止まったら終わり――。
何のために生きてきたのだろう。
ついこの間、11歳の誕生日を迎えたばかりで、まさか次の誕生日を迎えられないと思わなかった。
それに――。
それに、僕はやりたいことを何もしていない。学校にも行かせてもらえなかった。ロイのように友達と遊んだこともない。友達すら居ない――。
どうして生まれてきたのだろう。
死ぬために生まれてきたのかな。
でも――、人はいずれ死ぬものだから――。
それが悲しいんじゃない。こんなに早く死ぬのが――、何も出来ないままに死ぬのが嫌なだけだ。
こんな早く死ぬのなら、やりたいことをやらせてほしかった。学校に――、行かせてほしかった。
ロイのように――。
ロイのように……。

22:23