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47  学校編【1】~ルディの苦悩(2)

04 21 *2010 | 未分類

ついに声が出なくなったというのに、父上は森へ散歩に連れていってくれたり、海に連れて行ってくれたりした。此処は空気も綺麗だから、風を一杯浴びなさい――そう言って、帝都に居る時とは正反対に、外に連れ出してくれた。

外の風は心地良かった。
海の風は独特の香りがした。

心地良いのに、それでも具合を悪くすることが度々あった。夜中に急に苦しくなって、ベンソン医師に来て貰ったこともある。母上がずっと手を握って呼び掛けてくれていたこともあった。


だが、不思議なことに――。
一週間が経った頃、声が戻った。もう二度と喋られないと思っていたのに、声が出るようになった。
そして、本当に少しずつではあったが、症状が和らいでいった。胸が苦しくなることも無くなってきた。ベンソン医師は回復しつつあると言ってくれた。

「ルディ!」
少しずつでも回復しているのが解って嬉しくなる一方で、ロイは相変わらず暢気に遊んでいて――。
それはやはり羨ましかった。
「見て! 貝、拾ってきたよ」
「ロイ……」
ロイはふたつの貝を僕に見せる。大きい方の貝は海の中から取ったんだよ、と嬉しそうに話し出す。
こうなるとやっぱり口惜しくて――。
「……ロイ、休みたいから出ていってくれる?」
「ルディ……」
「騒がれると頭が痛くなるんだ」
ロイはしょんぼりと項垂れた。
その時になって、言い過ぎたことに気付いた。僕は何て意地悪なことを言ったのだろう――。ロイにだって悪気は……。
「ごめんね、ルディ。これ、ルディにあげるから……、具合が良くなったら眺めてね」

謝らないと――。
解っているのに謝ることが出来ない。ロイは元気だから、僕のことなど理解出来ないんだ――と意地を張ってしまう。ロイを傷付けているのに――。

ロイが部屋を去ってから枕から顔を出すと、ロイが置いていった貝が見えた。
ロイは大きな方の貝を置いていった。小さな貝を自分のものにしたのだろう。
大きな貝を僕に寄越すなんて――。
ロイは、決して自慢するために僕に見せた訳じゃない。純粋に僕に見せるために――、持って来ただけで――。

自分の心の狭さに気付かされたのもこの時だった。自分の身体のことは誰に責任がある訳でもなく、またそのことで他人を僻んでもならない。子供の頃、そのことで父に酷く叱られた理由が、よく解った。

私はロイを傷付けてしまった。しかもその時ばかりではない。ロイをずっと避けてきた。ロイを見ていると羨ましくなるから――、口惜しくなるから――と。自分のことばかりで、ロイのことを思いやってやれなかった。

ロイが去ってから暫くして、父上が部屋にやって来た。先刻のことをロイが告げ口したのだろうか――と思った。ところが、父上は下に降りるぞと言って、この身体を抱き上げた。
「……父上」
「何だ?」
「ロイ……は……?」
「もう下で待っている。喧嘩でもしたのか」
黙り込むと、父上はこの身体を車椅子に座らせて、それを押しながら言った。
「お前は都合が悪くなると黙り込む。ハインリヒに悪いことをしたのなら、きちんと謝りなさい」
父上は階段の前まで車椅子を押し進め、それからまた身体を抱え上げた。パトリックがすぐに駆け寄ってきて、車椅子の方を持って下りて行く。

リビングルームには、ロイと母上が待っていた。ロイは僕が部屋に入ると、すぐ振り返ったが、いつものようには駆け寄ってこなかった。
謝らないと――。

「ロイ……」
呼び掛けると、ロイは何、ルディといつもの様子で問い返してきた。
「先刻はごめん……。貝、ありがとう」
本当はもっと随分前からのことを謝らなくてはいけなかったのに、先刻のことを謝るのが精一杯だった。どう言って良いか解らなくて――。
ロイは何て言うだろう――。
「貝、見てくれた?」
ロイは嬉しそうにぱあっと表情を明るくする。何処でその貝を取ったのかとか、海の水が冷たかったとか、次から次へと語り出す。

私はこの時、羨ましさよりも、安堵した。
今迄の自分が愚かしく思えてきた。この時以来、ロイに対して嫉妬心を燃やすことは無くなった。
何かがすとんと自分のなかに収まったようだった。

20:46

46  学校編【1】~ルディの苦悩(1)

04 20 *2010 | 未分類

マルセイユに行く――。
この身体では外出出来ないと思っていたから、父上からその話を聞いた時は驚いた。そんな遠くに連れて行って貰えるとは思わなかった。
「海、行こうね!ルディ」
ロイは無邪気に言う。こんな身体で海に行ける訳が無いのに――。
「そうだな。海に浸かることは出来んが、眺めるぐらいなら良いだろう」
父上が言った。海に行く――? 僕が――?
何だろう。父上がいつになく優しいような――。

ああ――。
そうか。きっともう……。
僕の命が短いんだ。マルセイユに連れて行ってくれるのは、最後に旅行に連れて行ってくれるということなのだろう。

でも、それでも良い――。
もう生きられないのなら、外に出たい。鳥のように自由に――。
歩くことは出来ないけど、この間みたいに空を眺めたい。澄んだ空を見たい――。

私はマルセイユに行くことを日々楽しみにしていた。外に出られることが嬉しかった。
だが、マルセイユへ行く準備が進められるなか、出立の二日前に急に体調を崩した。胸を押さえつけられるような強い痛みがあった。心臓に起因するもので、トーレス医師は出立を取り止めにするか、延期するよう父上に言った。
その時、どれほどがっかりしたか――。

マルセイユに行けなくなる――。
楽しみにしていたのに、こんなことで行けなくなるのが口惜しかった。母上は取り止めるよう父上に告げ、父上も悩んでいた。
「行き……た……い……」
懸命に声を出して父上に言った。父上は暫く僕を見つめ、それから解った、と言った。
「明日中に痛みが収まったら、予定通りに明後日、出立しよう。痛みが治まらなかったら、また日を改めよう」
治ってほしい――と願った。その願いが叶って、翌朝起きると痛みが治まっていた。
そして予定通り、その次の日に車で出発した。

移動中のことはあまり記憶に無い。
後部座席に横たわり、側にはトーレス医師が付き添っていた。車の窓の光景が次々と変わっていく。はじめはそれを眺めていたが、次第に具合が悪くなって、眠りについた。
眼を覚ますと、ベッドの上に寝かされていた。全身がだるくて眼を開けていられなかった。母上と父上、それにトーレス医師が呼び掛ける声が何度となく聞こえた。母が手を握ってくれる感覚もあった。
もう死ぬのかな――と夢のなかで思った。
マルセイユに到着する前に死んでしまうのかと――。
この時、私は昏睡状態に陥っていたらしい。移動中のことが記憶に無いのもそのためで、かなり危険な状態に陥ったようだった。
それでも、何とか乗り越えた。

「ルディ」
母上の声に眼が覚めて瞼を引き上げると、母上は安堵した顔で具合はどう、と尋ねて来た。
「昨日、到着したのよ。途中からずっと意識が無かったから心配したけど……、具合はどう?」
到着した――。
ということは、此処はマルセイユで――。
視線の先に風を受けて靡くカーテンが見えた。マルセイユの部屋の柄と同じものだと解った。
でも何かが違う。窓の位置が近いような――。
「ルディが外を眺めやすいように、ベッドの位置を窓寄りに変えてもらったの。今日は天気も良いから窓を開けたけど、閉めた方が良い?」
首をゆっくり横に振ると、母上は、ではもう少し開けておきましょうね――と言った。
風が吹き込むと心地良い。
「もう少ししたら、ベンソン医師が往診に来るからね」
トーレス医師は帝都に戻ったことを母上は教えてくれた。ベンソン医師はトーレス医師の知り合いで、マルセイユに居る間はベンソン医師が侍医を務めてくれる。トーレス医師よりも一回り老いた医師だった。
「は……」
母上、という短い言葉が出ない。声が出ない。
ついに声が出なくなった――?
母上は心配そうに僕を見つめた。声が出ないと言うことはもう話が出来ない。やっぱりこのまま死んでいくのだろう。このまま――。

21:17

45  学校編【1】~父の覚悟(2)

04 19 *2010 | 未分類

「……お気持ちは解りますが、今のフェルディナント様を長時間移動させることは……」
翌日、トーレス医師に面会したいと約束を取り付けて、仕事を終えてから、トーレス医師の所属する第七病院へと向かった。
フェルディナントをマルセイユに連れて行きたい――。
彼にそう告げると、トーレス医師はフェルディナントの身体では無理だと言葉を返した。
「昨日、フェルディナントを少し外に出したら空を凝と眺めていた。あの子は殆ど外に出ていない。身体が弱いから外に出してはならない……と、あまり外に出してこなかった。だがあの様子を見ると、それが間違いだったのではないかと思えてならない」
「昨日のことは奥様から伺いました。今日の診察の折、フェルディナント様が少し咳をなさっていたので……。旦那様のお気遣いも解りますが、フェルディナント様のお身体は昨日のようなほんの僅かな散歩でも弱ってしまいます。大気中の汚染物質に敏感に反応なさいます。確かにマルセイユなら、帝都よりは空気は澄んでいるでしょう。フェルディナント様の病状が好転する可能性が無い訳ではありません。ですが、帝都からマルセイユまでの長い道程を、今のフェルディナント様が耐えられるとは思いません」
「……トーレス医師、貴方に主治医として付き添っていただいたとしても?」
「フェルディナント様のお命を保証出来ません」
「万一の事態を……、覚悟していると言ってもか?」
「旦那様……」
「このまま投薬を続けたとて、フェルディナントが快復する見込みも薄い。それに、フェルディナントの体質の原因が環境にあるというのなら、此処よりも環境の良いマルセイユならば快復する可能性が少しはあるかもしれないと希望を持ちたい。……何よりも、あの子に思い切り外の空気に触れさせてやりたい」
このままでは、フェルディナントはただ命が終わるのをベッドの上で待っているだけだ。
命数が短いのならば――。
もう手の施しようが無いのならば――。
外の空気を吸わせてやりたい。蒼い空を心ゆくまで見せてやりたい――。
「……マルセイユで治るという保証もありません」
「解っている。このまま投薬治療で治るというのなら、私もこんな提案はしない。だがフェルディナントは……」
トーレス医師は暫く考え込んだ。
そして、何とか許可を貰った。


「マルセイユに!?」
帰宅してから、ユリアにマルセイユに行くことを告げると、ユリアはすぐさま反対した。フェルディナントの身体が長時間の移動に耐えられる訳が無い――と。
「トーレス医師から許可も貰ってきた。マルセイユまで彼に同行してもらう。そしてマルセイユにはベンソン医師が居るから、其処での治療はベンソン医師に任せる。トーレス医師から連絡を取って貰い、フェルディナントの病状を伝えてもらうことにした」
「フランツ! ルディがマルセイユまでの移動に耐えられると思っているの!?」
ユリアは声を荒げる。予想していたことだった。ユリアは断固として反対する――と。
「ユリア。このままでもフェルディナントが快復するかどうかは解らない。二ヶ月前のことから思い起こしてみろ。倦怠感にはじまり動けなくなって、ついには呼吸も出来なくなった。そして今となっては心臓が弱り始めている。今のフェルディナントには薬が効かない」
「だからといって死期を早めて構わないとでも!? 昨日のたったあれだけの散歩でもルディは咳込んで、今日もそれが続いていたのよ? フランツ、ルディをマルセイユに連れて行くのは絶対に反対です」
「いや、連れて行く。マルセイユに居る時は、フェルディナントはあまり体調を崩さない。それは、マルセイユの環境がフェルディナントを癒してくれているということだ。ハインリヒの学校が休暇となり次第、私も休暇を取る。パトリックとアガタにも同行してもらう。そのように準備を整えてくれ」
「フランツ! 私は反対です」
ユリアは尚も反対する。強い視線で私を見つめる。
「ユリア、昨日のフェルディナントを見ただろう。凝と空を見つめていた。……私達はこれまであの子を自由にさせなかった。それで長く生きられるのなら、と考えてな。もしこのまま心臓が止まったとしたら、あまりに不幸なことだ」
「それは解っています……。でもだからといって、こんな状態の時に外に出したら、ルディは……」
「移動には細心の注意を払う。トーレス医師にも同行してもらうんだ。何かあれば付近の病院に入院させる。……ユリア、たとえフェルディナントの命が短くなったとしても、フェルディナントにあんな悲しい表情で死んでほしくないんだ。……お前も気付いているのだろう?」
このところのフェルディナントは表情を――、特に眼の輝きを失っている。それが昨日、空を見た時、少し輝きを取り戻したように見えた。だからこそ――、マルセイユ行きを決断した。
「……覚悟しろと言うのね……」
「……私には自信があるんだ。マルセイユでの転地療養で、フェルディナントが快復するかもしれない、とな」
ユリアは渋ったが、最後にはマルセイユ行きを了承してくれた。
ハインリヒの学校が休暇となり次第、マルセイユに赴く。アガタも反対したが、結局は私の意志に従ってくれた。
マルセイユに行くということで、ハインリヒは海に行けると喜んだ。フェルディナントは――。
「僕……も……?」
驚いて問い返してきた。そうだと返すと、フェルディナントは何か言いたそうな表情をする。
「トーレス医師にも同行してもらう。移動中の休息も多めに取るから、心配することは無い。お前も外を見たいだろう」
その時、フェルディナントの表情が変わった。嬉しそうな表情を浮かべ、少しだけ頷いた。

21:14