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50  学校編【1】~快復と希望(3)

04 24 *2010 | 未分類

片足をそっと前に出す。まだ足が震えていて、何かに捕まっていないとバランスを失ってしまう。
一歩二歩進む。
あと少し、もう少しだけ――。
がくりと足が力を失う。頑張ってもまだ数歩しか歩けなかった。自力で立ち上がろうとしたところ、階段の下に居た父上が声をかけてきた。
「その様子だともう帝都に戻って良さそうだな」
「父上……」
父上は階段を上がって側にやって来ると、両脇を抱え上げた。再び両足で立つと、片手を支えてくれる。
「ベンソン医師に相談して、帝都に戻る日を決めよう」
「本当に?」
「ああ」
帝都に戻れる――。
嬉しくて飛び跳ねてしまいそうだった。このマルセイユが嫌いではないけれど、帝都が懐かしい。嬉しさに一歩前に足を踏み出そうとした途端、またバランスを崩した。父上の手が身体を支え、抱き上げる。
「治った途端に怪我をしては元も子もないぞ」
父上がこの身体を車椅子に座らせる。そうしてリビングルームに向かっていると、ロイが階段を駆け上がってきた。
「ロイ。もう少し静かに階段を上がりなさい」
「はあい。父上、ルディと一緒に散歩に行っても良い?」
「二人きりでは駄目だ。少し待ちなさい」
「ザカ少佐が連れて行ってくれるって。だから良いでしょう?」
「ザカ少佐が?お前はザカ少佐にまで我が儘を言ったのか」
少し待っていなさい――と父上は言って、階段を下りていく。ロイはもうちょっとで歩けるね――と僕を見て言った。
「うん。ロイ、僕が元気になったら遊ぼう」
「うん!」
ロイは嬉しそうに勢い良く頷く。そのところへ、父上が階段を上がってきた。
「ね、父上。ザカ少佐が連れて行ってくれるって言ってたでしょう?」
「ああ。だが、二人とも、ザカ少佐の言うことをきちんと聞いて我が儘を言うのではないぞ。特にハインリヒ」
父上の後ろからザカ少佐が上がってくる。父上が僕の身体を抱き上げて、ザカ少佐が車椅子を持ち上げた。ザカ少佐はロイと僕を散歩に連れて行ってくれた。


ザカ少佐は年の離れた兄のような人だった。
マルセイユを離れて帝都に戻る日、私は彼との別れを惜しんだ。彼は早く良くなるように――と優しい笑みを浮かべて、それから敬礼をした。
帝都に戻り、ひと月が経つ頃には私は完全に快復して、元通りの生活を営むようになっていた。学校に通うことは出来なかったが、暫くはそれをせがむのを止めた。そしてジュニアスクールに通える年が終わりを告げようとした時、反対されるのを覚悟のうえで、思い切って両親に高校に行きたいと打ち明けた。
その願いは、漸く――叶った。


「ただいま……あっ!」
ノックの音も無く扉が開き、ロイが現れた。ロイは制服のネクタイをかなり緩めていた。
「制服が届いたんだ? グリューン高校の制服、こんな間近で見るのは初めて……」
「ロイ」
いつも家に帰ってくるなり、ネクタイをそうして緩めておく。上着を脱ぎながら、階段を上るものだから――。
「着替えるなら先に着替えてらっしゃい。中途半端な格好が一番見苦しいわよ」
母上に叱られる。父上がこの場に居たら、すぐに拳骨が飛んできただろう。ロイが言い返そうとすると、母上が毅然と見据える。ロイははい、と素直に言って足下に置いた鞄を持つ。部屋を去る間際、私の方を見て言った。
「あとで僕にも着させて、ルディ」
「解った」
ロイはそれを聞き届けると弾むような足取りで、階段を駆け上がっていく。いつも通り、階段を一段飛ばしで――。ミクラス夫人がすぐさま部屋を出て、ハインリヒ様、とそれを注意する。
「ロイは階段から落ちてみないと止めないでしょうね」
母上は溜息を吐きながら言った。
「一度ぐらいでは諦めないと思うよ」
「まったくその通りね」
母上は私の傍らから立ち上がると、部屋を出て、ロイときつい声で呼び止めた。
鏡の中に制服姿の私が映る。再来週から学校が始まる――。
4年前には考えられなかった。辛い日々だった。
でもあの時に、気付いたことも多かった――と今になって思う。

22:01

49  学校編【1】~快復と希望(2)

04 23 *2010 | 未分類

「ルディ。散歩に行きましょう」
マルセイユでは一日に一度は外に出て、森のなかの空気を吸った。いつもはパトリックが連れて行ってくれる。今日はパトリックに急な仕事が入ったようだった。
管財人であるパトリックは忙しいことがあって、そういう時は母上かアガタが散歩に連れていってくれる。母上は車椅子を押して、玄関に向け歩き出した。

「奥様。お電話が入っております」
アガタが母上を呼び止める。少し待っていてね――と僕に言ってから、母上はアガタの許に行った。

廊下で暫く待っていても母上はなかなか戻って来なかった。もしかしたら用事でも入ったのかもしれない。母上は文化団体や慈善団体の活動を支援していることもあって、いつも屋敷に居るといっても忙しいことも多い。このマルセイユに来てもそうした団体からの電話がかかってきていたから、何となくそんな感じがした。

少しぐらいなら外に出て良いかな――。
そう考えて、車椅子を前進させるボタンを押す。これぐらいなら自分でも出来る。車椅子はゆっくりと進み、玄関の扉の前で止まった。腕を上げるとまだ震えがあるし、まだあまり力が入らない。精一杯手を伸ばしてノブを掴み、それを回す。何回か繰り返してやっと成功した。

扉を開けると、花壇が見える。母上が来るまで外の花壇の前で待っていようと思った。
「あ……」
進もうとしてすぐに車椅子は止まる。よく見ると、玄関から外に出るには階段があった。車椅子の機能が危険を察知して、自動的に前進を止めた。これでは先に進めない。仕方が無い。此処で待とうか――。

「どうかなさいましたか?」
足音が聞こえたと思ったら、父上の部隊の隊員だという――確かザカ少佐が、側にやって来た。
「外に出ようと思ったけど、階段があって……」
「お一人で?」
「母上を待っているんです。でも少し時間がかかりそうだから、あの花壇の前で待とうかと思って……」
ザカ少佐は成程、と微笑んで、では私が花壇までお連れしましょう――と言った。軽々とこの身体を抱き上げて、玄関脇に置いてある椅子へと座らせる。そして、車椅子を抱えて階段の下に置く。再び僕の身体を抱き上げて、車椅子の上に戻す。
「ありがとうございます。ザカ少佐」
「名前を憶えていただき光栄です。フェルディナント様」
ザカ少佐は話しながら、車椅子を押して、花壇の前まで連れてきてくれた。その時、母上がやって来た。

「ザカ少佐、すみません。ルディ、急に居なくなるから吃驚したわよ」
「ごめんなさい。母上」
「ルディ、悪いけれどお散歩はもう少し後になりそうなの。お部屋で待っていてくれる?」
やっぱり急な用事が入ったのだろう。きっとまだ電話の最中に違いない。
「うん、解った」
「あの、もし宜しければ、私が散歩にお連れしましょう」
ザカ少佐が母上に申し出る。母上は少し戸惑った様子で私を見た。
「軍の方に此方の警備を務めて頂いていることも心苦しいのに、そのようなことまで頼んでは……」
「構いません。散歩のルートはちょうど警備区域です。一時間ほど森を回ってきますよ」
「ご迷惑ではありませんか?」
「まったく。フェルディナント様に何かあれば、携帯電話から御屋敷にすぐお電話します」
母上はありがとうございます、と微笑んで言った。
「よろしくお願いします。ルディ、きちんとザカ少佐の言うことを聞くのよ」
頷き応えると、母はザカ少佐にもう一度、お願いします、と言って扉の方に足早に戻っていった。
「では行きましょうか」


この時の私は知らなかったが、トニトゥルス隊といえば陸軍屈指の特殊部隊で個人の護衛には勿体ないほどの人々だった。しかし父上が連れて来た三人の隊員達は、そうしたことは一切口にせず、いつも私達を守ってくれた。

ザカ少佐は三人のなかでも一番若い人物で、人当たりの良い青年だった。当時の彼は一昨年、士官学校を卒業したばかりで、父上の部隊に配属となったとのことだった。

いつもと違うこの時の散歩は楽しくて、それ以来、私はザカ少佐と顔を合わせるたび話をした。子供の他愛の無い話であっても、ザカ少佐は車椅子の私と目線を合わせてから、きちんと話を聞いてくれた。

そして、週末には父上とロイがマルセイユまでやって来た。そうした生活がひと月続いて、その頃には私は何とか支えを持って立ち上がれる程にまで、回復していた。

22:20

48  学校編【1】~快復と希望(1)

04 22 *2010 | 未分類

マルセイユで過ごす日々は、確実に私の身体を癒していった。驚いたことに、それまで薬の効果が全く表れなかったのに、薬が効き始め、マルセイユに来て三週間が経つ頃には、人工呼吸器も取り外された。身体も少しずつ動かせるようになっていった。
父上とロイの休暇が終わりを告げる頃には、私自身が快復に希望を持ち始めていた。
そして明後日には帝都に戻るという日、父上はリビングルームに全員を呼び寄せた。


パトリックに車椅子を押してもらい部屋に向かった。支えられながら、ソファに座ると父上は此方を見て言った。
「フェルディナント。お前は母上と一緒にもう暫く此方に居なさい」
「え……?」
「折角こんなに回復したんだ。帝都の空気より、このマルセイユの空気の方が、お前の身体には合っているのだろう。もう少し此処で体調を整えなさい。申し訳無いが、パトリックとアガタにももう少し此方に留まってもらう」
「承知致しました」
パトリックとアガタが一礼して応える。父上は、済まないな、と言ってから付け加えた。
「この屋敷の警備として、私の直属部隊の隊員を三人要請した。もうじき此方に挨拶に来ることになっている」
「旦那様。この屋敷には警備システムが張り巡らされています。それに私的なことに部隊を動かされては……」
「心配するな。勿論、長官から許可を頂いてある。それに、警備システムが張り巡らされているといっても、いつ何が起こるか解らない」
三人とも信頼できる者達だ――と言い添えて、父上は母上を見た。
「何かあればすぐ連絡するように。それに週末は私も此方に来る」
「解りました」
「パトリック、アガタ。二人を頼んだぞ」
「待って! 父上、僕は?」
パトリックとアガタが返事を返すより早く、ロイが手を挙げて言った。
「お前は学校が始まるのだから、私と共に帝都に戻るに決まっているだろう」
「僕も此処に居たい! 少しぐらい学校を休んでも大丈夫だよ」
「莫迦なことを言うな。お前は予定通り、明後日、帝都に帰るんだ」
ロイは不服そうな顔をする。母上やアガタ達はそれを見て笑った。
「旦那様、私が帝都までお送りします」
「いや、構わんよ。パトリックは此方に居てくれ」
父上とパトリックが話している最中に、ロイが母上の側にやって来て、僕も此処に居たいと言い始めた。学校が始まるでしょう――と母上はロイに返す。
「ルディと離れるの嫌」
あらあら、と母上は此方を見て笑いながら、ロイの髪に触れた。
「週末にはお父様と一緒にいらっしゃい。そして帝都の話を聞かせて頂戴」
ロイは一緒に居る、と母上にしがみつく。ハインリヒ、と父上が厳しい声を放つ。ロイは泣きそうな顔で、だって、と言い返した。
「帝都よりこっちの方がいい」
「我が儘を言うな。お前にはお前の為すべきことがあるだろう」
「でも……」
「ハインリヒ。言うことが聞けないのか」
ロイの眼からぽろぽろと涙が落ちる。母上はそれを拭い、ずっとという訳じゃないのよ――と慰めるように言った。
「ルディの体調がもう少し良くなったら、私達も帝都に戻るからね。それまで良い子にして待っていてね」
「母上……」
「毎日電話をかけるから。それに週末には会えるのだから良いでしょう?」
ロイは尚も不服そうな顔をしたが、やがてこくりと頷いた。父上が何か言いかけた時、呼び鈴が鳴った。それを受けて父上が立ち上がる。パトリックと共に出迎えに行き、父上が部屋に戻って来た時には、三人の男の人と一緒だった。
「トニトゥルス隊のハンス・カーフェン中佐、ノーマン・ザカ少佐、リオネル・バルト少佐だ。隊のなかでも選りすぐりの精鋭達だ」


ロイと父上が帰ると、屋敷は急に静かになってしまった。考えてみると、いつも元気よく騒いでいるのはロイだった。悪戯をして叱られるのもロイで、そのロイを叱る父もいないから屋敷が静かになるのは当然だった。
ロイは最後まで此処に居たがった。あまりにせがむものだから、父上の拳骨を喰らって泣きながら帝都に戻っていった。
『ルディと一緒に居る!』
ロイのその声がまだ聞こえて来るような――。

「ロイが居ないと寂しいわね、ルディ」
母上が読んでいた本を置いて言った。うん、と頷くと、母上は微笑み返す。
「いつも元気が良すぎる子だけど、ずっと貴方のことを心配していたのよ、ルディ」
「ロイが……?」
「マルセイユに来る途中で具合が悪くなった時、ロイが貴方から離れなくて。ルディ、ルディって泣きながら何度も呼び掛けていたのよ」
「そう……だったんだ……」
「あの貝もね、貴方に見せるんだって溺れかけながら取って来たのですって。……ねえ、ルディ。もう解っていることだろうと思うけど……、貴方だけが辛いのでは無いのよ」
「母上……」
「空元気で走り回るロイの存在は貴方にとって辛いものでしょうけど、ロイはロイで貴方を励まそうとしたの。貴方はもう解ってくれていると思うけどね。だからルディ、何があっても絶対に一人で落ち込まないで」
母上はいつも、優しく諭すように叱る。父上のように怒鳴られる訳ではないのが、却って辛くて――。
「ごめんなさい……」
謝ると母上は良い子ね――と言って僕の身体を抱き締める。
「学校はもう少し我慢して。トーレス医師と相談して、外を出歩いても大丈夫だって許可が出たら必ず通わせてあげるから」
「うん……」


私があのようなことを言って嘆いたものだから、母上は悩んでいたのかもしれない――と、後になって気付いた。思い返してみれば、発病してから私は一人きりで考え込むことが多くなっていた。マルセイユに来てからは、体調が良くなってきたということもあるが、徐々に家族の輪に戻っていった。
ふと――思う。私に有無を言わせず抱き上げて、ロイや母上の許に連れて行ったのは父上だった。父上はもしかしたら私のことを気遣ってくれていたのか、と。
――否、そんなことは無いだろう。ただ単に家族の輪に加わらないことに腹を立てていただけに違いない。

21:09