「それでこの犬ですか」
ボリスは今、私の隣に座っている。ハインリヒは週に一度は私の許にやって来る。私の足下を彷徨くボリスを見て、犬を飼ったのですか――と言うから、ボリスを預かることになった経緯を話した。
「すっかりヴァロワ卿に馴れていますね」
「子供の頃から動物は好きだったんだ。まあ、ボリスを預かるのもあと数日だがな」
四日後には、彼女の友人が旅先から帰ってくるという。その日に犬を連れに来ると言っていた。
「彼女はまだ此方に通ってくれるのでしょう?」
ハインリヒは興味津々の態で尋ねて来る。さあな、と返すとハインリヒは笑って、年齢差ぐらい良いではないですか――と言った。
「ウールマン卿の夫人も18歳下と聞いています。それにハインツ家もそうだった筈……。ヴァロワ卿がそんなに気にすることは無いですよ」
「彼女からみれば、親子ほど年が離れているんだ。それに私は結婚は……」
「ヴァロワ卿、この間も言いましたが、きっと最後の機会ですよ。話を聞く限り、良い女性のようだし、ヴァロワ卿とお似合いだと思います。ルディも関心を寄せていましたよ」
ハインリヒが知れば、フェルディナントにも話が筒抜けになることは解っていたが――。
皆、何故こうも彼女との交際を勧めるのか――。
一昨日、アントン中将夫人から電話がかかってきた。フラウ・ルブランが私に怪我をさせたことを謝ったので、彼女に非は無いこと、怪我は大分良くなっていることを伝えた。アントン中将夫人はそれでも悪いのはフィリーネですよ――と言ってから、突然、こう言った。
『ジャン。彼女のことをどう思っているのかしら?』
アントン中将夫人の問い掛けに面食らっていると、やっぱり少し落ち着きが無いかしら――と夫人が告げるから、明るく良い娘さんですよ――と応えた。すると夫人はヴィクトルも彼女の明るさが気に入っていたのよ――と返して、続けた。
『フィリーネも今年24歳だし、貴方のことがまんざらでもないようだから……。ねえ、ジャン。彼女をお嫁さんに迎えるつもりは無いかしら?』
流石にこれには驚いて、言葉を失った。アントン中将夫人がそんなことを提案してくるとは――。
いや、確かに、これまでにも何度か、夫人から結婚を前提とした交際を勧められたことはあった。身を固めなくてはなりませんよ――というのが、夫人の口癖で、私はその都度、丁重に断ってきた。
『夫人、私は彼女と20歳以上も離れていますよ。彼女からすれば近所に住む小父さんです。それに彼女なら、いずれもっと素敵な男性が現れますよ』
『あら、フィリーネは年齢差を気にしていないみたいよ。貴方に興味を持っているようだし……。それに貴方になら安心してフィリーネのことを頼めるから、私は大賛成だけど……。ヴィクトルもその気があったようだし……』
『……アントン中将が? 私はそのようなことを聞いていませんが……』
『フィリーネが帝都に行くって言った時に、ヴィクトルはそう考えたみたいよ。ヴィクトルは貴方に紹介するつもりだったから……。貴方にならフィリーネを任せても良いと考えたみたいね。だけど、突然倒れてしまったからフィリーネのことを頼むことも無かったけど……。私もあの子のことを話すのをいつもうっかり伝え忘れていて……』
『何かあれば力にはなりますが、彼女と私では不釣り合いですよ』
『まあ、貴方だったらもっと良いお嫁さん候補が居るでしょうけど……』
『そうではないですよ。彼女はまだ若いから、私のような甲斐性の無い男でなくとも、もっと良い相手が……』
『あら。私はフィリーネにとっては貴方が最良の相手だと思っているのよ』
アントン中将夫人と一時間以上、話した。兎に角、暫くはフィリーネの世話を受けてくれと言われ、彼女の迷惑にならない範囲でということでそれを了承した。
このことは、ハインリヒには黙っておいた方が良さそうだ。
「それにこの部屋も綺麗に片付いてる。彼女が掃除をしてくれているのでしょう?」
「……まあな」
フラウ・ルブランはこの間、私の家に来て、掃除をしてくれた。その礼にと思い、彼女を誘ってレストランで食事をしようと考えていたら、彼女が手料理を作ってくれた。子供の頃に慣れ親しんだリヨン風の料理で、温かなそれを食べたのは、久しぶりだった。
「良い女性だ。……彼女のことを考えれば、私はお前かフェルディナントに紹介したいぐらいだ」
何気なくそう言うと、ハインリヒは肩を竦めて苦笑した。
「私は当分、結婚はしません。まだマリのことを吹っ切れないままなので……」
「あ……、済まない」
ハインリヒは恋人を失ったばかりだということを、失念していた。ロートリンゲン家の当主であることを考えれば、そろそろ結婚を考えなければならないのだろうが、流石にまだ皇女のことを忘れられないのだろう。
「いいえ。……まあ、私も独身を貫くという訳にはいかないので、いずれ伴侶を見つけますが……。ルディも落ち着いたら身を固めるでしょうけど……」
「そういえば、フェルディナントは恋人が居るという噂も無いな」
「かれこれ10年近く恋人が居ませんよ。結婚まで辿り着きそうだったのに、恋愛よりも仕事を選びましたから」
「……仕事を選んだことに関しては、私も人のことは言えないが……。前の恋人とは結婚までいきかけたという話は初めて聞いたぞ」
「良い雰囲気だったのですよ。二人が就職するまでは。大学を卒業して、仕事に余裕が出来てきたら結婚するかもしれないとルディ自身も言っていましたし……。ところが、外務省に入ってから仕事が忙しくなって、おまけにルディも仕事一辺倒になるものだから、互いの時間が取れなくなってしまったのです。彼女の方も仕事熱心でしたしね。……それで結局別れてしまって……」
フェルディナントらしい――と思ってしまう。確かに、ずっと仕事ばかりだったから、恋人を作る時間も無かったのだろう。
「縁談はこれまでにもいくつかあったのですけどね。ルディはどれも断ってしまいました」
「だろうな」
そもそもフェルディナントの場合、あの容姿では女性の方が放っておかないだろう。宮殿内をフェルディナントが通った時には、女性達の囁きが聞こえたものだった。ハインリヒもやはり同じように女性から人気があったが――。
「私は軍に入ってから一度女性と付き合いましたが、半年で別れてしまったのです。その後暫くは仕事に集中していましたが、大将となった年にマリと出会って……」
「……大将となった年……? では皇女とは随分長く……」
ハインリヒが大将となったのは確か、25歳か26歳の頃だ。その頃から皇女と付き合っていた――?
「ええ。7年付き合いました。誰にも気付かれないようにこっそりと。ルディは知っていましたが……。万一の時、ヴァロワ卿に迷惑がかかってはならないと思い、黙っていたんです」
「7年も……。そうか……。それではまだ振り切れないだろうな」
「はじめは皇女と知らなかったのですよ。式典で初めてそれを知って、慌ててルディに相談して……。あの時はルディも困惑していました」
ハインリヒは苦笑しながら告げる。待て、大将となった時ということは元帥も存命中の頃だ。ということは――。
「ハインリヒ。元帥も御存知だったのか?」
「いいえ。黙っていました。あの頃は父も病に罹っていましたし、無用の心配をさせてはならないと思いまして……」
「ああ、そうか……。確かにちょうど元帥が臥せっていた頃だな」
ハインリヒは頷いて、デートは勤務中に少し抜け出してのことだったのですよ――と、とんでもないことを言った。
「……よく気付かれなかったな」
「ルディに呼ばれたことにして、執務室を出て……。尤もそんなことは週に一度しか出来ませんが……。漸く婚約まで辿り着いて宮殿のなかで堂々と会えるようになったかと思ったら、破談になって……」
「ハインリヒ……」
「すみません。……最近どうも思い出してしまって……」
ハインリヒは苦笑して、珈琲を一口飲んだ。
「あまり思い詰めるなよ。……いや、私こそ思い出させるようなことを言って悪かった」
「ヴァロワ卿のせいではありませんよ。でもアントン中将の姪御はやはり閣下とお似合いです」
「……年上の人間を揶揄するものじゃない」
「揶揄に聞こえてしまったら、すみません。ですが、私は本当にそう思っているのですよ」
何がお似合いなのだか――。
だが、フラウ・ルブランの姿を見ると何だか安堵感を覚えてしまうのも事実だった。週に一度、彼女の休日を利用して一緒に過ごす時間が楽しい。不釣り合いだと解っていても――。