車を走らせて到着した店は、それほど混み合っていなかった。
   向かい合って座り、互いにメニューを選ぶ。このお店に入ったのは初めてです――と、フィリーネ・ルブランは嬉しそうに言った。
「私も初めてだ。この道はよく通るから、店自体は知っていたのだが……」
「軍務省まではいつもお車で出勤ですか?」
「いや、大抵は宿舎で寝泊まりしている。週末だけ自宅に帰っていたんだ」
「それで……、これまでお会いすることもなかったのですね」
   フィリーネ・ルブランは納得したように明るい表情を見せた。
「君はずっと帝都に?」
「大学まではリヨンの実家に居ました。両親はリヨンで就職するように言ったのですが、私はどうしても建築デザインの仕事がしたくて、帝都に……。殆ど家出同然でしたが」
   彼女は肩を竦めてそう言ってから、叔父が支援してくれたんですよ――と付け加えた。
「アントン中将が?」
「あのアパートを借りる時も叔父に援助してもらったんです。あの辺りは私のような駆け出しの者では手が届かないのですが、一番安全な地域だからと叔父に勧められて……。治安が良いというのもありますが、閣下の御自宅が側にあるからとも言っていました」
「アントン中将も一言仰ってくれれば良かったのに」
   苦笑すると、叔父はそのつもりだったんですよ――と彼女は返した。
「私が帝都に引っ越した翌日に叔父が倒れてしまって……。そのまま亡くなりましたから……」
「……そうか。……そうだな。アントン中将が亡くなられたのは一昨年……。ちょうど君が帝都に来た年だったのか」
「あの時は突然のことだったので驚いてしまって、よく憶えていないんです。叔父は翌月に私のアパートまで様子を見に来ると言っていたので、本当にショックを受けてしまって……」
「アントン中将は君のことを可愛がっていたから、無理も無いことだ」

   今から20年前のことになるか――。
   ナポリにあるアントン中将の自宅を訪れた折に、幼い彼女を見たことがある。アントン中将は我が子のように可愛がっていたのをよく憶えている。
   あの時は確か、ナポリで陸軍と海軍の合同会議があって、2年ぶりにアントン中将と再会した。自宅に立ち寄らせてもらった時、玄関先でアントン中将を出迎えたのが、彼女――フィリーネ・ルブランだった。アントン中将を見るなり、お帰りなさい――とアントン中将に飛びついて、側に居た私は驚いた。
『ただいま、フィリー』
   思い出した。
   アントン中将は彼女のことをフィリーと呼んでいた。いきなり飛びついた彼女を抱き留めながら、アントン中将は私の姪なんだ――と教えてくれた。夏休みで、遊びに来ていたらしい。その時のアントン中将はとろけてしまいそうなほど、満面の笑みを浮かべていた。

「部下にはとても厳しい方だったのに、君の前では真反対で……。私はそのことに随分驚いたものだ」
「叔父には子供が居なかったので、可愛がってもらったんです。休暇のたびに叔父の家に遊びに行っていましたし……。まるで実の子のように接してくれました」
「そうだろうな。よく解る」
   その時、料理が運ばれてきた。この店に、若い女性が多いのも道理で、皿の上の料理は綺麗に盛りつけられていた。彼女はそれを見て、表情を明るくした。
   ここ暫く、政府の混乱の渦中に居たせいだろうか。彼女のような裏表の無い笑みを見ると、何だかほっとしてしまう。
「……閣下。私、変な顔していました……?」
「え? あ、いや……」
   思わず彼女の表情を見入ってしまった。彼女は気まずそうに私の方を見る。どうも彼女と居ると、自分自身がおかしくなってしまうような――。
「ずっと殺伐としたなかに居たせいか、君のような一般の女性を見るのは珍しくてね」
   運ばれてきた料理を口に運ぶ。見た目も素晴らしいが、味も良かった。
「24歳なのに落ち着きのない子供のようだと、両親には言われます」
「いや、そういう意味ではなく……。きっと私が世間から少し外れた場所に居るんだ」
   苦笑すると、彼女はついこの間まで戦争でしたものね、と言った。
「はじめの戦地は遠い場所でしたので、戦争といわれても実感はありませんでした。でも先日、突然軍隊が帝都に侵入して……。住民には危害を加えないと放送が流れましたが、それでも銃を構えた軍人が歩いていると怖くて……」
「そうだな……。起こしてはならない戦争を起こしてしまった」
「あ、閣下を責めている訳ではありません。閣下もきっと大変なお立場だったでしょうし……、それに戦争で大怪我を負われたと叔母から聞いています」
「アントン中将夫人もナポリから遠い帝都まで、見舞いに来てくれた。……もうひと月前になるか。君はその時、夫人とは会ったのか?」
「ええ。叔母が閣下のお見舞いを終えた後、カフェで少し話を。閣下が大怪我をして入院なさっているという話もその場で聞いたんです。長い間、意識不明だったと聞いていたので、ボリスが閣下のお宅に入り込んだ時には、まさかいらっしゃると思わなくて……」
   どうやら彼女は、私がまだ入院中だと思っていたらしい。そう思って庭に入ったところ、私が出て来たということだった。

「先日、叔母から電話がかかってきて、ボリスが閣下のお家に入ってしまって怪我をさせたって話したら、怒られました。大きな犬を飼ったこともないのに、そんな頼み事を気軽に引き受けてはいけないって」
「まだボリスは君が預かっているのか?」
「ええ。友人には早く帰ってきてほしいのですが、まだ旅行先から帰らないって……。管理人さんに知られるとアパートを追い出されかねないのに……」
   困った表情で彼女は溜息を吐いた。アパートではペットが禁止されているのだろう。その友人も、よく彼女に頼んだものだった。
「ならば……、ボリスを私の所に連れてくると良い。庭で遊ばせておけば、ボリスもストレスが溜まらないだろう」
「そんな……。それでは閣下のご迷惑になってしまいます」
「動物は好きな方だから構わないよ。今日、君を送っていく時に引き取ろう。その代わり、散歩だけは連れて行ってくれないか? 私はまだ自分の身体しか支えることが出来ないから」
「本当に……、良いんですか……?」
「ああ。餌を与えるぐらいなら私にも出来る」
   彼女は安堵したような表情を浮かべ、それから傍と気付いた様子で、また表情を変えた。彼女の表情の移り変わりを見ているだけでも面白いものだった。

「でしたら閣下。私のお節介も気兼ねなく受けてやってください」
「え?」
   どういう意味か解らず聞き返すと、お食事とお掃除のお世話だけはさせてください――と彼女は言った。
「叔母からも閣下の腕を骨折させたのは私のせいなのだから、せめてお食事とお掃除だけはお世話させていただきなさいって言われています」
「しかしだな……」
「お食事は今迄通りにお持ちしますので、週に一度だけお掃除させてください。犬が居てはお家も汚れますから。ね? そうさせて下さい」
   此処まで言われては――。
   私も断れなかった。
   否――、そればかりではない。彼女の料理は美味くて――。そして、温かいうちに届けてくれるささやかな気遣いが嬉しかった。
「では……、甘えさせてもらう」
   彼女の表情がぱあっと明るくなる。私の方が余程嬉しい申し出なのだが――。
「君の料理、どれも美味かった。いつもありがたく頂いている」
「お口に合って良かった! お嫌いなものはありますか?」
「いや、嫌いなものは無い」
「ではお好きなものは?」
「君のキッシュ、美味かった」
   彼女は嬉しそうに、また作りますね――と言った。
   彼女の表情が数秒ごとに切り替わる。人の表情とはこんなにも豊かなものなのだと気付かされる。
   アントン中将が彼女を可愛がっていたのも頷ける――。
   この日、食事を終えてから彼女を送っていき、ダルメシアンのボリスを引き取った。ボリスは嬉しそうに尻尾を振って車に乗り込み、私の家にやって来た。どうやら私のことを気に入っているようで、何処までもぱたぱたと尻尾を振ってついてくる。

   ボリスは人の気配を感じると、いち早く立ち上がって、窓の外を見に行く。家に人が訪れると吠えるから、今の私にはちょうど良かった。


[2010.6.18]
Back>>5<<Next
Galleryへ戻る