「閣下。御怪我の具合はどうですか?」
フィリーネ・ルブランは大きな紙袋を抱えて扉の前に立っていた。私を見るなり、にっこりと微笑んで怪我の具合を問う。
「ありがとう。大丈夫だ。朝食もどうもありがとう。美味かったよ」
フィリーネ・ルブランは良かった――と本当に嬉しそうに笑った。
思わずどきりとした。こんな風な女性の笑顔を向けられたのは、久々で――。
「だが本当に君が気にすることは無いんだ。こう気遣われると私も心苦しい」
「……ご迷惑ですか……?」
彼女の笑顔が一転する。申し訳無さそうな表情になる。
「いや、迷惑ということではない。君にも君の生活があるだろうから、私のために時間を割くのは……」
「私のことなら気になさらないで下さい。閣下のご迷惑でなければ、閣下がご不便な間、お食事とお掃除だけでも手伝わせて下さい」
「だ、だが……。私は男の一人住まいだし、その……、君のような若い娘がこんなところに足を運んでは、君に迷惑がかかるだろう」
フィリーネ・ルブランは大きな眼を一層大きく見開いた。数秒の後、楽しそうに笑い出す。
「閣下が独身だということは叔父から聞いていました。堅物で生真面目だから、女性が寄ってこないって」
彼女はアントン中将の口真似をしてそう言った。そして、私のことなら気になさらないで下さい――と付け加える。
「しかし……」
「閣下が悪い方なら、私に莫大な治療費を請求して困らせている筈ですもの。それに閣下の眼は優しい方の眼ですから」
彼女の行動に困ったという気持よりも、自分自身に困り果てていた。
彼女はこれまで接してきた女性とまったく違う。そんな彼女に、私は明らかに興味を抱いていた。無邪気さが残るほど純粋な彼女に。
年齢差を弁えろ――と自分に言い聞かせる。22歳差となると、自分の子供でもおかしくない年齢だ。
「あの……、閣下……?」
「いや、やはりそのようなことをさせるのは悪いから、気遣わないでくれ。私は長年、一人で暮らしていたせいか、他人に世話をされるのが好きではなくてね」
彼女の表情から笑みが消える。しかしすぐに口元に僅かな笑みを湛えて、解りました、と告げた。
それはどうみても作り笑いだった。
「本当にご迷惑をおかけしてすみませんでした」
彼女はぺこりと頭を下げてそう告げると、足早に立ち去っていく。
彼女を傷付けてしまったかもしれない――と思ったが、彼女のためにもきっとこうするのが一番良い。若い女性が46歳の独身男の家に立ち入らない方が良い。
胸の内に穴が開いてしまったかのように寂しさはあったが、それを頭から追い払って、リビングへと戻った。
翌朝、リビングで眠っていたところ、足音が聞こえて眼が覚めた。新聞屋は門の外にあるポストに新聞を入れ込む。門を開けるということは、誰かがやって来たということだが、こんな朝早くから――。
起き上がると、扉の方でがさりと音が聞こえた。一体誰だ?
まさかフォン・シェリング大将派の残党か。
杖を取り、扉へと向かう。足音が遠退くのが聞こえてくる。なるべく音を立てないよう、扉へと向かう。
襲撃にしては妙だな――。
門の開閉音が聞こえてからは、人の気配が無い。インターフォンを操作して、カメラ越しに庭の光景を映し出す。誰も居なかった。
「何だ……?」
扉を開ける。用心したが、誰も居なかった。
誰も――。
だが、扉に手提げ袋が掛けられてあった。爆発物かと一瞬危惧したが、そのなかに小さなメモが入っているのが見えた。
それを取り出してみると、女性特有の筆跡が綴られてある。
フィリーネ・ルブランだった。手が不自由な状態では食事の支度が難しいだろうから、せめて朝食と夕食だけはこうして届けさせてほしい――と書かれてある。
袋のなかには昨日と同じように、彼女の手製の料理が入っていた。
そして彼女は夕方にも扉に袋を掛けにきた。礼を言おうにも、彼女はすぐにこの場を去ってしまうようで、私のこの身体では追いつくことが出来ない。呼び鈴すら鳴らさないから、私が部屋を出る頃には彼女は走り去ってしまう。
朝は八時頃、夜は七時頃――翌日、その時間を見計らって待ち受けた。八時を十分過ぎたところで、足音が近付いて来た。その時、扉を開けると彼女は驚いた様子で眼を見開いた。そしてすぐににこりと笑んで、おはようございます――と挨拶する。
「温かいうちに食べて下さいね、閣下。それでは失礼します」
彼女は素早く私に袋を手渡して、背を向ける。声をかける余裕すら与えず――。
「フラウ・ルブラン!」
呼び掛けると、彼女は一度立ち止まり、此方に会釈して立ち去っていった。
フィリーネ・ルブランの持って来てくれる料理は、私にとって懐かしいものばかりだった。同じ地方の出身だということもあるのだろう。特にキッシュパイの味は母が作ってくれたものによく似ていた。
こんな風に甘えて良いものだろうか――と思う。しかし彼女の足は速く、今の私では追いつけない。待ち伏せてもすぐに立ち去ってしまうのだから――。
「……そうか。この付近のアパートだと言っていたな」
この付近は戸建ての住宅街で、アパートとなると数が限られる。彼女がやってくる方向から察して、此処から少し北に入った2つめの通りにあるアパートに違いない。
そして彼女が温かな夕食を持って来るのが大体午後7時頃だということを考えると、6時頃に帰宅するのだろう。
今の時刻は午後5時だった。彼女への礼も兼ねて、今日は彼女を誘い外で食事をすることにした。病院からの帰路に、女性の好みそうな雰囲気の良い店があった筈だ。
ソファから立ち上がり、二階に着替えを取りに行く。クローゼットの脇には軍服がかけてある。裁判の時には軍服を身につけていったが、それも終えたことだし、もうこの軍服に袖を通すことも無いだろう。
軍服をクローゼットの奥にしまい込み、かわりにスーツを取り出して、それに着替える。午後5時半が過ぎたことを確認してから、家を出た。
車を出して、おそらく彼女の住むアパートであろう場所へと向かう。邪魔にならないような場所で停車して待ち、十分が過ぎたところだった。彼女の姿が見えた。
「フラウ・ルブラン」
車を降り、呼び掛けると、彼女は振り返った。
「閣下……。何故、此処に……」
「この付近のアパートとなると、此処しか思い当たらなくてな。これから時間は空いているか?」
彼女は驚きながらも、はい、と応えた。
「では荷物を置いたら一緒に食事に行かないか?」
暫く私を見つめていた彼女の顔に笑みが溢れる。すぐに準備します――と言って、彼女は足早にアパートのなかに入っていった。