食事を終えて、リビングに散乱した本を少しずつ片付けていると、家の前で車が止まった。見覚えのある黒い車はハインリヒのようだった。程なくして、車からハインリヒが降りてくる。窓からハインリヒ、と声をかけるとハインリヒは此方に気付いた。車を庭にいれて良いですか――と問い掛けてくる。ああ、と応えると、ハインリヒは車をバックさせて玄関前に駐車した。

「具合は如何ですか? ……右手どうなさったんです!?」
   ハインリヒは驚いて、肘から下の部分がぎっちりと固定された右腕を見遣る。苦笑を返してから、先に部屋に入るよう促した。ハインリヒは部屋に入って来るなり、右手のことを再度尋ねてきた。
「転んで痛めたんだ」
「……まさか……骨折……ですか?」
「ああ。亀裂骨折らしい。退院した直後のことだったから、医師に失笑されたよ」
   ハインリヒは私を見、真剣な眼差しで言った。
「ヴァロワ卿、やはり私の家で療養なさって下さい。皆、心配していたところでした。片足が不自由なのにお一人で暮らすなど……」
「気儘にやるから大丈夫だ。それにこの足にも慣れたいからな。他人が居ては甘えてしまう」
「ですが、それでは身の回りのこともままならないでしょう」
「まあ何とかやっているから大丈夫だ」
「……何とかやっているように見えませんけどね。……あれ、ヴァロワ卿……」
   ハインリヒが床を見つめる。その視線の先を追うと、犬の足跡があった。昨日のボリスの足跡だろう。
「犬の足跡が……」
「昨日窓から侵入してきたんだ。その犬が跳びかかってきて、自分の身体を支えきれずに転んでしまってこの有様だ」
「犬が跳びかかってきたって……。その犬の飼い主は一体何をしていたのですか?」
「それがな……。奇妙な縁というか何と言うか……」
「縁……?」
「ああ。その飼い主……というより、一時的に友人から犬を預かっているらしいのだが、それがアントン中将の姪御でな。この付近で暮らしているらしいのだが、私が手を怪我したことに酷く罪悪感を覚えているようで、実は朝食も彼女が作って持って来てくれたんだ」
「アントン中将の姪御……?」
   ハインリヒは不思議そうに問い返す。ハインリヒは彼女に会ったことは無いだろう。何しろ、私が出会ったのももう20年も前のことだ。

「アントン中将夫人には妹御が居るんだが、その御夫婦には娘が居るんだ。20年ほど前にアントン中将の自宅にお邪魔した折、私も会ったことがあってな。アントン中将が実の孫のように可愛がっていたんだ」
「アントン中将に姪御がいらっしゃったとは知りませんでした。それもこの付近に暮らしているとは……」
「私も驚いた。尤も向こうは私のことを知っていたのだが」
   昨日の顛末を一通り語る。ハインリヒは聞き終えると笑みを浮かべて、良縁となるかもしれませんよ――と言った。
「どういう意味だ、それは」
「お話を聞く限り、悪い女性では無さそうだし……。ミクラス夫人から強制的にでも屋敷に連れて来るように言われていましたが、彼女が来てくれるのなら、その必要も無さそうですね」
「ハインリヒ。何か酷く勘違いしているようだが……」
「良いではないですか。ヴァロワ卿にはこれまで何一つ浮いた話が無かったのですから。きっと好機が巡ってきたのですよ」
「……ハインリヒ、彼女がいくつだと思っている?」

   多分、ハインリヒは勘違いしている。アントン中将の姪だということで、推測しているのだろうが。
「ヴァロワ卿と同じぐらいではないのですか? アントン中将夫人の妹御の娘となると、ヴァロワ卿と同じぐらいか、それとも少し若いか……」
「アントン中将夫人は妹御と10歳年が離れているんだ。そして妹御もなかなか子供に恵まれなかった」
「では……、私と同じぐらいですか?」
「もっと若い。24、5歳といったところだろう。私が初めて会ったのが、彼女が5歳の時だから……。言っただろう。アントン中将が孫のように可愛がっていた、と」
   24、5歳……、と呟いてハインリヒは暫く考え込んだ。一体何を考えているのだか。
「22歳差ということですか。……まあ、良いではないですか。お似合いだと思いますよ」
「勝手なことを言わないでくれ。第一、私の年齢を考えろ。もう46歳だ。この年になったら独身を貫くさ」
「いつもミクラス夫人が嘆いていましたよ。ヴァロワ卿は良い方なのに、何故良い伴侶が見つからないのか――と。私もまったく同感です」
「私は気儘な性質だからな。それにお前やフェルディナントのように後継者が欲しい訳でもない。……ところで、フェルディナントの具合は?」
「具合が良ければ一緒にお邪魔しようと思ったのですが、風邪気味だったので」
「大丈夫なのか……?」
「ええ。この数日、少し冷え込んできたので風邪を引いたようです。大事を取って外出を控えただけで、寝込んでいる訳ではありませんから」
   きっとまだ本調子ではないのだろう。ハインリヒは立ち上がると、側にあった本を片付け始めた。
「ハインリヒ。そのままで良い。私が片付けるから」
「その腕では無理でしょう。彼女が来るにしても、この部屋だけは片付けますよ」
「だから、家に入れるつもりはない。私は構わずとも、彼女に妙な噂が立ったら困るだろう」
「それこそ好機ではないですか。ヴァロワ卿、きっと今回が結婚への最後の機会ですよ」
「お前なあ……」
   ハインリヒはてきぱきと辺りを片付けていく。とはいえ、書棚は既に一杯で本を収納する場所が無いから、書棚の脇に積み上げていくしか無いのだが。放っておいて良いというのに、ハインリヒは雑巾を持って来てボリスの足跡を拭いてくれた。
「ああ、あと、寝室も片付けておきますね」
「ハインリヒ。良いから座っていろ。今、飲み物を持って来る」
「ヴァロワ卿こそ、座っていて下さい。あまり動くと傷に障りますよ」
   ハインリヒはさっと立ち上がって、二階の寝室に行く。しかしそうと任せてはいられなくて、杖を使い、階段をゆっくりと上がっていく。

   足が不自由になってからというもの、階段というものが酷く厄介なものに感じられた。右足を上手く引き上げたつもりなのに、段差にぶつかって躓き、前のめりになる。杖でバランスを取ろうにも階段の端からずり落ちて、身体のバランスを崩し、転んでしまった。
   昨晩から数えると何度目になることだか――。
   転んだ音に気付いて、ハインリヒが寝室から出てくる。大丈夫ですか――と駆け寄って、私を立たせてくれた。
「ヴァロワ卿、せめて右手が治るまでの間、寝室を下に移したら如何です? 右手と右足が不自由では、階段は辛いでしょう」
「……そうだな。その方が良さそうだ。済まないが、ブランケットと枕を下まで運んでくれないか? 掃除は良いから」


   結局、ハインリヒは家の掃除を済ませてくれた。ロートリンゲン家には使用人が何人も居るから、掃除をしたことなど無い筈なのにハインリヒは意外に手際が良かった。そのことを尋ねたら、アジア連邦に居る時にフェイ次官に教えてもらったという返答が返ってきた。簡単な料理も出来るようになったと言う。

   掃除を終えてから、ハインリヒはミクラス夫人が作ってくれたスープを温め、ミートローフを並べて昼食の準備までしてくれた。フィリーネ・ルブランが今朝持って来てくれたものもまだ充分に余っていたから、それもテーブルに並べて、ハインリヒと共に昼食を摂った。その後、ハインリヒと暫く語り合い、ハインリヒは二時頃に帰った。
   掃除をする必要も無くなり、大人しくリビングで本を読むことにした。暖かな陽射しが窓から伸びてくる。ちょうど昨日、ボリスに襲われた場所が陽で包まれる。

   そういえば――。
   彼女はアパートで暮らしていると言っていたが、あの犬をアパートの一室に閉じ込めているのだろうか。あんな大きな犬が日中ずっと閉じ込められては、ストレスも溜まるだろう。ああ、そうか。だから余った元気で外に飛び出してしまったのか――。

   本のページを開いたまま、昨日のことを考えるばかりで全く読んでいなかったことに傍と気付いて、自分自身に苦笑した。自分で自分がおかしかった。ハインリヒがあのようなことを言うからだ。

   午後6時になろうかとした頃、呼び鈴が鳴った。宣言通り、彼女がこの家に来たのだろう。気を遣う必要は無いことをもう一度言わなくては――。


[2010.6.16]
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