「え? 手術を受けることになったのか?」
   国際会議から帰宅してからも、やはりまだ調子が悪くて、その日はトーレス医師の診察を受けてそのまま眠りについた。今日は大分回復していたが、大事を取って仕事を休み、ゆっくりと身体を休めていたところだった。ミクラス夫人が教えてくれた。今日、ロイは病院で手術を受けるのだと。
「ええ。複雑骨折とのことで、早めの手術を勧められました。11時から手術ですので私はフリッツと共に行って参りますが、フェルディナント様はお休みになってお待ち下さいね。連絡をいれますので」
   ミクラス夫人に釘を刺されてしまった。立ち会いぐらい構わないだろう――と言い返すと、トーレス医師からも禁止令が出されたのだという。
「肺炎にまでは至っていなかったから良かったようなものの、フェルディナント様も一週間は御静養下さいとのことでした。外出はいけませんよ」
「一週間も静養しろと……? 私にはそのようなことは何も……」
「処置を終える前に眠ってらっしゃいましたもの。ですからフェルディナント様、お身体をじっくりと休めて下さいね」
   ミクラス夫人はそろそろ出掛ける準備をしますと言って、側から立ち上がる。ミクラス夫人の代わりに別の使用人が入室して、御用向きがありましたら仰せ付け下さい――と言った。
「ロイの手術にも立ち会えないとはな……」
「無理に行かれたらハインリヒ様がお怒りになりますよ。ではフェルディナント様、行って参ります」
「ああ。気を付けて。ロイには頑張れと伝えてくれ」
   ミクラス夫人は快く頷いて一礼し、部屋を去っていった。
   ロイの事が気にかかる。手の傷もそうだが、あの日以来、どうも悩んでいるようで――。
   士官学校時代の知り合いがあのような形でロイの前に現れ、そしてロイの命を奪おうとし、挙げ句ロイが助けようとした手を振り払った。ロイは何でも無い素振りをしているが、割り切れない気持ちを抱いていることはよく解る。
「ロイ……」





   ――まあ、ヴァロワ様。お忙しいのにいらっしゃって下さったのですか。
   ――ハインリヒは? 手の状態は……。
   ――つい先程手術は終了しました。今は眠ってらっしゃいます。骨も接合出来たとのことです。当分は固定が必要ですが、後遺症も無く完治出来ると……。

   ミクラス夫人とヴァロワ卿の声が聞こえる。頭が茫として色々考えるのが億劫だ――。
   手術――ああ、手の手術を受けたのだった。嫌だったが、このままでは手が治らないと言われて――。

「ハインリヒ様」
   フリッツの声が聞こえる。ゆっくりと眼を開けると、三人の顔が浮かび上がる。瞬きを繰り返すと、大丈夫かというヴァロワ卿の声と同じように安否を問うミクラス夫人とフリッツの声がはっきりと耳に届く。
「大丈夫です……。頭が茫としていますが……」
   麻酔のせいだ――とこの時になって気付いた。俺が眠っている間に手術は終わったので、心配していた手術の恐怖は何も感じなかったが――。
   何だろう。俺はずっと何かの夢を見ていた。
   夢のなかでも、これは夢だと認識していたような夢だった。一体何の夢を見ていたのだろう。重要なことのように思えるのに、思い出せない。

   程なくして執刀した医師がやって来た。一通りの診察を受け、異常が無いことを確認する。その間も夢半ばのように、頭に靄がかかっていた。

   そういえば――、過去にも同じような状態に陥った。あれは確か――、虫歯を抜いた時だ。歯痛をずっと我慢して耐えきれなくなって――。
   子供の頃から医者嫌いで、歯医者でも治療を拒み続けたら全身麻酔をかけられてしまった。あの時と同じだ。頭にずっと靄がかかっている状態――。

   そういえば、あの時も父上に叱られた。
   ああ――。
   そうだ。父上の夢を見た。父上に叱られた夢を。
『物事を引きずるな。起きてしまったことは反省をしてから、胸にしまい込め。いつもそう教えて来ただろう』
   俺は夢のなかでハーメル少将の話を打ち明けた。そうしたら父は父らしくひとつ息を吐いてからそう言ったのだった。そして――。
『いつまでも情けない姿を部下達に晒すな。自分の立場を弁えろ。まったくお前はいつまで経っても自覚が足りない』
   叱られた。
   父上らしい言葉で叱られた。もし父上が生きていたら――、きっとあのように言っただろう。
「ハインリヒ?」
「夢の中で……、父に叱られました……」
   不意に笑みが零れてしまったのをヴァロワ卿が気付いて問い掛けられた。何気なく右手を挙げかけてそれを止められる。まだ動かしてはなりません――とミクラス夫人が制した。そうだった。まだ右手は使えないのだった。
「……元帥も心配して現れたのではないか?」
   ヴァロワ卿の言葉に笑み返す。また眠気が襲って来た。眼を開けていられない――。



「お目覚めになりましたか?」
   次に眼が覚めた時にはミクラス夫人だけが側に座っていた。
「大分寝たようだな……。何時だ?」
「五時を過ぎたところです。麻酔から一度お目覚めになったのが三時間前で、またすぐにお眠りになりましたので」
「憶えているが、大分寝惚けていた気もする……」
   あの時は頭に靄がかかったようだった。まだ半分夢見心地のようで――。
「ヴァロワ様、お仕事の合間にお見舞いにいらして下さったそうです。海軍長官様も御心配なさっていたとか」
「忙しいだろうに申し訳無かったな。礼も言っていない」
   今は頭が冴えている。身体をゆっくりと起こすと、ミクラス夫人が水を差し出した。
「ありがとう。ところでルディの具合は?」
「お屋敷で眠ってらっしゃいます。ハインリヒ様の手術に立ち合いたいとの仰いましたが、トーレス医師からも禁止されましたので……」
「俺はすぐに邸に戻るから大丈夫だと伝えてくれ」
「解りました。執刀医も申していましたが、骨は綺麗に繋がったそうですよ。神経にも何も異常は無いとのことです。あとはなるべく右手を使わないように、と」
「良かった。利き腕だから心配していたんだ」
「ひと月程固定して、その後リハビリをとのことでした。ですからすぐに右手を使ってはいけませんよ」
   右手は動かせないようにベッドに固定されていた。痺れるような感覚はあるが痛みは無い。程なくして医師の診察が始まり、ミクラス夫人に言われたのと同じことを告げられた。
   暫くは左手での生活に慣れるしかないな――そんなことを考えていた時に傍と思い出した。

   父上の夢を見たのだった。そして俺はそのことをヴァロワ卿に――。
   寝惚けていたから口走ってしまったのだろう。
   俺がずっと悩んでいたことをヴァロワ卿に気付かれなければ良いが――。
   ヴァロワ卿は勘が良いから――。

「このままであればおそらく何も問題は無いかと思います。明日の朝の状態が避ければ退院と……」
   医師の言葉に傍と我に返る。医師が去っていくとほぼ同時に、開いた扉から花とヘルダーリン卿の姿が現れた。
「ヘルダーリン卿……」
「突然、手術を受けたというので驚きました。ヴァロワ卿から容態は伺っていましたが」
「お忙しいのにすみません」
   ヘルダーリン卿はミクラス夫人に花束を渡した。ありがとうございます――と受け取ったミクラス夫人は活けて参りますと言って、病室を去っていく。ヘルダーリン卿は側に歩み寄って、具合を尋ねた。
「もう痛みもありません。此方こそご迷惑をおかけしました」
「事件の詳細について報告を聞いて、背筋に冷や汗が流れましたよ。最上階から落下しかけたと……」
「あの時は慌てました。何かに掴まらなければ――と、咄嗟に手摺りを掴んだのは幸運でしたが」
「ハーメル少将を助けようとしたとも聞いています。右手はその時に骨折したのだと」
「結局、助けることは出来ませんでした。……彼が首謀でしょう?」
「ええ。計画書が彼の住居にありました。しかし何者かが背後に居ることは確実です」
   ヘルダーリン卿はこの時、声を低めて、宰相を狙う旧体勢派の動きのことをもヴァロワ卿より聞きました――と言った。


[2012.8.17]
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