「父上、父上!」
   暫くしたらフェルディナントの許に様子を見に行かなければならないな――そう考えていた矢先、ハインリヒが飛び込んできた。書斎でフリッツと共に仕事をしていた時のことだった。
「部屋を開ける時はノックを……」
「ルディが大変なの! 早く来て!」
   ハインリヒは涙を浮かべながら言った。只ならぬ様子に、すぐ椅子から立ち上がった。
「何があった?」
「息が苦しいって倒れたの……! 早く……!」
「フリッツ。トーレス医師に連絡を」
   フリッツに医師の手配を任せてから、すぐに二階に駆け上がった。フェルディナントの寝室に入ると、その姿はベッドには無く、部屋の真ん中で俯せに倒れていた。
「フェルディナント!」
   すぐ側に駆け寄り身体を起こして愕然とした。顔は血の気が失せ蒼白になり、唇もその色を失っていた。何よりも慌てたのは、呼吸が止まっていたことだった。
   すぐにベッドに連れて行き、人工呼吸を施した。脈も弱り切っていたから、心臓マッサージと共にそれを行ったが、ぐったりとしたフェルディナントは息を吸い込めない状態で意識を失ったままだった。
「旦那様。すぐにトーレス医師がいらしてくださるとのことです」
   部屋に来たフリッツが私にそう報告したが、それに応えることも出来なかった。フェルディナントは何度息を吹き込んでやっても、自発呼吸が出来ない状態に陥っていた。



「フランツ」
   フリッツから報せを受けたユリアが帰宅したのは、トーレス医師がちょうど処置を終えた時のことだった。フェルディナントの意識は回復していないが、弱々しいながらも自力で呼吸が出来るまでになっていた。
   ユリアは帰ってくるなりすぐにこの部屋に駆け付けた。
「大丈夫だ。容態は安定した。先に着替えた方が良い」
   このままではユリアはフェルディナントの側に行くことが出来なかった。外出から帰宅したときは必ず着替えてから、フェルディナントに接するようにしている。そうでなければ外気に取り込まれた物質がフェルディナントの身体を苦しめることになる。
   ユリアもそれは重々承知していて、フェルディナントの眠っている様子を見てから、一旦部屋を後にした。
「旦那様。フェルディナント様の今後の治療についてですが……」
   肺炎を悪化させた時、トーレス医師は入院を勧めてきた。しかし、フェルディナントが嫌がり、また私達も出来るだけ邸内で療養させたかったから、その段階での入院を拒んだ。だが、この事態となったら入院させざるを得ないだろう。
   その予想通り、トーレス医師は一週間の入院を求めた。その間に、心臓の検査と肺の治療を行うとのことだった。それを承諾し、明日からフェルディナントを入院させる手続きを取ることになった。

   それにしても――。
   酸素マスクを外してはならないと忠告していたのに、フェルディナントは自らその禁を破った。
   私に似て強情な節はあるが、約束を破るような子でもないのに――。



   その理由は、ハインリヒの話によって納得した。
「花火が上がって、ベッドからだと見えないから、窓際に来たの」
「……誘ったのか?」
   ハインリヒの様子がおどおどしていたことから問い掛けると、ハインリヒは小さく頷いた。
「今のフェルディナントは動いてはならないのだとお前にも諭しておいただろう!」
「ごめんなさい……」
   とはいえ、ハインリヒをあまり叱りつけることは出来なかった。今回の一件はどう見てもフェルディナントに非がある。
「明日から一週間、フェルディナントは入院することになった。そのことはお前も弁えておきなさい」
「入院……? 病院に行くの……?」
「そうだ。暫く邸内が慌ただしくなるが、お前は普段通りの生活を送るのだぞ」
   そうハインリヒに言い残してから、再びフェルディナントの部屋に行った。フェルディナントのベッドの側にはユリアが座っていた。
「花火を見るためにベッドから出たようだ。すぐに苦しくなってベッドに戻ろうとしたらしいが……」
「そう……。毎年、この部屋から見える花火を楽しみにしていたものね」
「だが、あまりにも浅はかな行動だ。酸素マスクを外してはならないとあれほど厳しく言っておいたのだからな」
「……ルディはまだ八歳のよ。そのことも考えて、フランツ」
   ユリアは私に怒るなと告げている。しかし――。
「子供とはいえ、このたびは何度も忠告したことだ」
   ユリアが何か言いかけた時、フェルディナントの眼がゆっくりと開いた。瞬きを繰り返すなか、ユリアがルディ――と呼び掛ける。
「大丈夫? 具合は悪くない?」
「母……上……」
   まだ発声するのは苦しいのだろう。無理をしなくて良いからね――とユリアはフェルディナントの頬に触れて言った。そのフェルディナントの眼が私を捉える。
怒るなと言われても――。
「お前は命が惜しくないのか、フェルディナント」
   フランツ、とユリアが制す。
   だが、誰かが言わなければ――、この子は気付かない。
   身体が弱いから、いつ死んでも仕方が無い――内心でフェルディナントはそう考えている。生きようとする決意に欠けている。それを何度も何度も諭しても、フェルディナントはそれを理解しない。
「何故、言いつけを破った?」
「ごめんな……さい……」
   フェルディナントの瞳にじわりと涙が浮かぶ。嗚咽を漏らし始め、ユリアはそっとフェルディナントの胸を擦った。

   結局、それから十日間、フェルディナントは第七病院に入院した。病院での治療は相当辛いものだったのだろう。普段は大人しく治療を受けるフェルディナントが珍しく嫌がり、医師や看護師を手こずらせることもあった。また、退院予定日に発熱し、一度は退院も延期となってしまった。
   だが、入院した甲斐あって肺炎も良くなり、帰宅してからもリビングで過ごすことが出来るようになった。

   たとえ短い命数だとしても、その命は大切にしなければならない。
   フェルディナントがこのことを解る日が来ることを祈るばかりだった。


[2012.6.28]
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