あの日の意識を失う直前までのことは鮮明に憶えている。ロイが父上を呼びに行ってくると言って部屋を去ったあとも、私はベッドに自力で戻ろうと頑張った。だがどれだけ頑張って這っても、動けなくなった。そのうち、眼の前が真っ暗になって――。
   あの時、父上は必死に人工呼吸を施していたのだぞ――と、ずっと後になってロイから聞き知った。嘗てはロイのその言葉に違和感を覚えたものだった。父上は私がお荷物だったのだから、義務感でそれを為しただけだろう――と。
   だが、父上はきっと必死に私に人工呼吸を施してくれたのだろう。今となってはそう思える。
   あの時、意識を取り戻した私に父上は厳しく叱りつけたが、思えば当然のことだ。酸素マスクを外せばどうなるか、私も解っていたのだから。私自身の考えが浅はかで甘いものだったのだと、今になって解った。
   もうそれを父上に伝えることは出来ないが――。
   せめて、これからは精一杯生きよう。四日後に迫った手術を受け、リハビリに励んで――。
   辛い道程となるだろうが、私は懸命に生きよう。それはきっと父上や母上も望んだことだ。



「フェルディナント様。お苦しくはないですか?」
   窓の外を何気なく見ていると、ミクラス夫人が問いかけてくる。一昨日、急に高熱を出して、意識不明の状態に陥ったから、夫人は案じているのだろう。
「大丈夫だ……」
「具合が悪くなったらすぐに仰って下さいね。お声が出しづらいようでしたら、私の袖を引っ張ってください」
   ミクラス夫人は心配気に覗き込んで言う。微笑して頷くと、ぱらりと頬に落ちてきた前髪をそっと後ろに払ってくれた。
「手術を終えたら、髪を整えましょうね、フェルディナント様。もう大分伸びてらっしゃいますから……」
   アクィナス刑務所に入ってから髪を切る機会もなかったから、煩わしいほどに伸びていた。ここ最近は具合が悪くてそれを気に留めることもなかったが――。
「ロイも……髪が伸びて……いたな……」
   私ほどではないが、少し伸びていた。忙しくて理容師を呼ぶ時間もないのかもしれない。
「ええ。ハインリヒ様には来週、整えて頂く予定です。フェルディナント様は退院なさってからの方が宜しいでしょう」
「そうだな……」
「フェルディナント様……。手術、頑張って下さいね。お辛いでしょうが……」
   ミクラス夫人は私の手を握った。四日後に迫った手術は心臓と肺を移植する大掛かりな手術で、私の身体が長時間の手術に耐えられるかどうかという危険が伴っていた。手術しか快復のための手段は無いとはいえ、今の身体は衰弱しきっていた。ミクラス夫人が頻りに案じるのも無理の無いことだった。
   だが、大丈夫――。
   絶対に乗り越えてみせる。
「ああ……。手術を……終えたら……、ロイと……もっと話が……出来る……」
「ええ。ハインリヒ様もそう仰ってましたよ。それにフェルディナント様と旅行に行かれるとか」
「行ってみたい……。随分……、欲張りな……旅……だが……」
「ハインリヒ様も楽しみになさってらっしゃる御様子でした。お二人のそんな御様子を見ていると、全てが元に戻ったかのように思えます。あとはフェルディナント様が快復なされば……」
「刑務所……で……、父上の……言葉を、思い……出した……。厳しかった……が……、私のこと……を……、ずっと……案じて……くれていた……と、今になって……解って……。だから……、それに報い……る……ために……も……、私は……頑張って……生きる……」
「フェルディナント様……」
「私……も、ロイ……も……、大切に……してくれた……の……だな……」
「ええ。旦那様はお厳しい方でしたが、フェルディナント様のこともハインリヒ様のことも深く愛してらっしゃいましたよ」
   少し――瞼が重くなってきた。休んだ方が良さそうだ。
   眠い――。
「少し……休む……」
「解りました。お寒くありませんか?」
「大丈……夫……。ロイ……、帰って来た……ら……、起こして……くれ……」
「承知しました」
   ミクラス夫人がブランケットを整えてくれる。
   一眠りしたら、ちょうどロイが戻ってくる頃かもしれない。帝都の様子を聞かせてもらおう――。
   瞼をゆっくりと閉じる。
   話し疲れたのか、身体が重く感じられた。
   休めば治る――。



   父上と母上の姿が瞼に浮かぶ。
   そういえば、刑務所のなかではよく夢を見た。ロイと四人で楽しく過ごしている時間のことを。
   だが、今はロイは居なかった。父上と母上、二人が仲睦まじく立っている。

   父上、母上――。
   私がそう呼び掛けると、父上は優しく笑んだ。私に向かって手を差し伸べた。
「頑張ったな」
   差し伸べた手に触れた時、そう言ってくれた。


【End】


[2012.6.29]
Back>>3<<End
Galleryへ戻る