夢路



   顔を少し動かせば、窓越しに蒼い空が垣間見える。
   私の部屋からは窓の外の様子がよく見える。外に出られない私のために、祖父母がこの部屋を宛がってくれたのだと聞いている。邸で一番眺望の良い部屋である此処は、元々祖父母の部屋だったが、私のために祖父母が別の部屋へと移った。それ以来、この部屋は私の部屋となった。
   ベッドに横たわっていても窓の外が少し見える。体調を崩し、部屋で大人しく寝ている時でも時間と共に移りゆく空の色を見ていたものだった。

   こうして窓の外を見ていると、子供の頃のことを思い出す。
   毎年一度行われる祭りの夜には花火が打ち上げられて、それは私の部屋の窓から綺麗に見えるものだった。まるで大空にぱっと明るい花が開くようで、鮮やかで。子供の頃は外出が出来なかったから、その花火は毎年、ロイと共に私の部屋で眺めていた。
   いくつの時だっただろう。
   風邪を拗らせて肺炎を起こし、さらにその肺炎を悪化させたことがあった。そのため、心肺機能が弱ってしまい、酸素マスクを装着させられた。煩わしいのに、それを外してしまうと呼吸困難に陥ってしまう。
   ベッドから出ることの出来ない状態となって、本を読むか、窓の外を眺めて一日を過ごしていた。私の側には、常に母上が居た。母上が席を外す時にはミクラス夫人が居た。ロイも学校から帰ったら、私の部屋で過ごしていた。父上も仕事から帰宅すると、私の様子を見にやって来た。
   肺炎はなかなか治らなかった。入院も勧められたが、一人きりで治療を受けるのが怖くて、それを拒んだ。ひと月も寝込んでいて、いつになったら元気になるのだろう――と、いつまで経っても治らない自分自身の身体に嫌気を感じていた。

   そんなある日のことだった。
   母上とミクラス夫人が、婦人会主催の演劇会があるとのことで出掛けることになった。そのため、ちょうどその日休日だった父上が私とロイの面倒を見ることになった。しかし、父上も家の仕事で忙しく、私の部屋と書斎とを何度も往復していた。
   この日は毎年恒例の祭りの日だった。昼に一度、夜にも一度花火が打ち上げられることになっていた。
「三時に花火が上がるんだって。先刻、フリッツに聞いて来たんだ」
   ロイは窓際に行って今か今かとその時を待っていた。私の部屋は窓の外がよく見える部屋だった。だからロイはこの時期にはいつも私の部屋に花火を眺めにくる。そして、私のベッドの位置からも少しだけ空が見えた。
「ルディ。花火が上がったら、少しだけ窓を開けても良い?」
「うん、良いよ」
   そう応えると、ロイは嬉しそうに時計を見上げた。あと二十分だね――と嬉しさを抑えられない様子で言う。
「ルディ、其処から見える?」
「うん。多分、見えるよ」
「良かった! それなら一緒に見られるね」
   酸素マスクが無ければ窓際に行けるが、今年は此処から動くことは出来なかった。それでも此処から少しだけ花火を見ることが出来るだろう――と、私も楽しみに待っていた。


   二十分が経ち、まだかまだかとロイと話していた時、ドーンと大きな音が聞こえてきた。花火が打ち上がったようだった。
   ロイは窓を開けた。あっち側に見える――と、指を差す。
   ところが、私のベッドからは大きな音が聞こえるだけで、何も見えなかった。大きなお花だね――とロイが外に釘付けになっているのに、私の位置からは花火の一部分さえも見えなかった。
「見えない……」
   ぽつりと呟くと、ロイが振り返った。
「どうやっても見えない?」
「何も……」
「こんなに綺麗なのに……」
   またドーンと打ち上がって、ロイはすぐに窓の外に視線を移した。今度は車の形だよ――とロイがその状態を教えてくれる。
   私だけが見られないことが悲しかった。嬉しそうなロイの姿が羨ましかった。私も空に花が咲く様子を見たかった。そんな時、ロイが此方を振り返って言った。
「ルディ。少しだけでもベッドから出られない?」

   少しだけ――。
   少しだけなら――。
   花火を見て、すぐにベッドに戻れば良い。苦しいと思ったらすぐに戻れば良い。
   絶対にやってはならないと言われ続けていた約束を、この時破った。
   ロイに促されずとも、きっと私はそうして窓際に行っただろう。

   酸素マスクを外して、ゆっくりと窓際に移動する。少しだけなら大丈夫――罪悪感を覚えながらも自分自身にそう言い聞かせた。花火が終わったらすぐに戻ろうと心に決めて。
「あ、ほら! ルディ! あそこに大きなお花が上がった!」
   ロイは夢中で空を見る。私も打ち上がる大きな花火を漸く見ることが出来た。
   ドーンと大きな音が木霊する。程なくして大輪の花が咲く。
   ところが――、花火の音が聞こえた時から、息苦しさを感じていた。胸が締め付けられるように苦しい。それでも何とか花火を見ようとそれを我慢した。
   空に大輪の花が咲いた時には、もう立っていられなくなった。窓際に座り込んで、口を大きく開けた。息を吸い込んでも、苦しくて仕方が無かった。
「ルディ?」
「ベッド……戻……る……」
   もう花火どころではなかった。息苦しくて堪らなくて、這いながらベッドに戻ろうとした。酸素マスクを外したことが知れたら、父上に叱られる――だから何としても自分の力でベッドに戻ってマスクを装着しなければならなかった。
「大丈夫……? ルディ……」
   這って一メートルも進んでいない。腕にも足にも力が入らなくなった。いくら深呼吸しても苦しくて――。
   ついにその場に倒れ込んだ。動こうにも動けなかった。
「ルディ!」
   ロイが私の身体を起こそうとしたが、子供の力で子供を運ぶことは不可能だった。ロイは父上を呼んでくる――と言って駆け出した。私は意識が朦朧とするなかで、尚もベッドに戻ろうとした。
   だが、その途中で意識を失った。
   後のことはミクラス夫人やロイから聞いて知った。


[2012.6.27]
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