空いている時間を見つけては、少しずつ本を読み進めていった。
   それがある日の昼休憩のことだった。ラウンジで食事を摂り終えて部屋に戻って来たところ、未処理の棚に新トルコ語の書類があることに気付いた。何気なく手に取って解る単語を拾い読みしていく。意味の解らない部分が多くて文意がなかなか把握出来ない。やはり辞書を手にしてゆっくり読み進めていくことしか、今の俺には出来なかった。しかもまだ文法を全て理解した訳でもない。こういう書類に取り組むには、まだまだ勉強が必要だな――そのことを再確認してから、書類を元に戻した。
「やらないのか?」
   不意に背後から声をかけられて振り返った。ヴァロワ卿が書類を手に立っていた。
「熱心に読んでいたようだから、てっきり取り組むのかと思った。厄介そうな案件か?」
「あ、いいえ。そうではなくて……。その……まだ新トルコ語を勉強中で……」
「新トルコ語を?」
   ヴァロワ卿はそう言って、俺が元に戻した書類を手に取った。三枚に渡る文章にさっと眼を通していく。その様子はまるで、自国語で書かれてあるかのようだった。尤もそうでなければヴァロワ卿のように大量の仕事に取り組むことは出来ないだろう。
「どのくらい勉強した?」
「何とか参考書を一冊読み終えた程度です。文法も完璧には理解していませんし、まだまだ勉強が必要なようだと再確認したところです」
   そう応えると、ヴァロワ卿は笑みを零して、手にしていた書類を俺に差し出した。
「取り組んでみろ。理解出来ないところは私に聞けば良い」
「え……!? ですが……」
「海軍部には新トルコ語を習得している人間が少ない。まあ、陸軍ほど新トルコ王国との繋がりが無いからといえばそうだが、あの国は今後力をつけてくる。お前が新トルコ語を習得するというのなら協力するぞ」
   ヴァロワ卿によると、この軍務局に寄せられる新トルコ王国の案件のうち、海軍部の分もヴァロワ卿が取り組むこともあるのだという。ヴァロワ卿は出来上がった書類を確認してくれると言った。
「本当に良いのですか……? ヴァロワ卿のお手間を取らせるのでは……?」
「それくらい大丈夫だ。これまで何か新トルコ語の長文を読んだことは?」
「それがまだ……。今、本を読んでいるところですが、なかなか進まなくて……」
「ではこの案件の文を先に翻訳して来い」
   折角の機会なので、ヴァロワ卿の厚意に甘えることにした。書棚から辞書を取り出して、席に着く。早速読み進めていった。尤もそれは容易なことでは無かった。
   一時間が経ってもまだ1頁を読み終えられず、おまけに意味の通らない文章がある。いくつか文を読み飛ばしては、また元に戻り読み返してみる――それを繰り返し、何とか3頁を読み終えたところで終業時間となった。

「ロートリンゲン大佐、帰宅して良いぞ」
   直属の上官にあたる少将がそう告げる。俺にはあまり仕事が回って来ないから、大抵、定時にそれを告げられるが、俺は大抵、居残って仕事をしていた。
「取り組みたい案件があるので、もう少し残ります」
「そうか。では私は先に帰宅する」
「お疲れ様でした」
   暫くすると、軍務局内には数人しか残らない状態になっていた。ヴァロワ卿の姿も見えない。先に帰ったとも思えないから、資料室か何処かに行っているのだろう。
   ヴァロワ卿が戻ってくるまでもう一度訳文を読み直した。やはり、意味の通じないところがある。ヴァロワ卿に教えてもらうしか無かった。
   そう考えていたところへ、ヴァロワ卿が戻って来た。俺の方を見て、出来たか――と尋ねる。
「はい。ですが、意味の解らないところがいくつか……。教えて頂けますか?」
   ヴァロワ卿は俺の机の側にやって来て、訳文を見た。胸元からペンを取り出し、数カ所にチェックを入れる。多分、訳を間違えているのだろう。
「此処の文法、この語の用法は……」
   ヴァロワ卿は原文を示しながら、読み方を教えてくれた。解らなかった箇所が鮮やかに読み解かれていく。そして理解出来なかった文法が、ヴァロワ卿の説明によって初めて理解出来た。
「ありがとうございます。ヴァロワ卿」
「初めてにしてはよく訳せていると思うぞ。あとは資料を添えて書類を作れば良い。資料の方も全部読んでおけよ」
   翌日、資料室で資料を探して、それを読み進めていった。理解出来ない部分をまたヴァロワ卿に尋ね、そして書類を作成する。局長に提出して、処理は終わる。

   ひと月と経たないうちに新トルコ王国の案件がまた舞い込んで、また俺はそれに取り組んだ。訳したものをヴァロワ卿に見てもらいながら進めるうちに、新トルコ語にも慣れてきた。新聞や本をすらすらと読めるまでには――。
「大佐。国際会議に出席しないか?」
   そんなある日のこと、ザカ中将から連絡があり、国際会議に誘われた。本部から人員を一人欲しいとのことだった。それで俺を選んでくれたらしい。
「はい。出席します。会議はどちらで開催されるのですか?」
「新トルコ王国だ。月末の出張なのだが、このたびは専用機で行く。日程は四日間だ。詳細はまた此方から報せる」
   突然のことで驚いてしまったが、まだよく新トルコ語を理解していない俺が出張についていっても良いものだろうか――。
「あの、ザカ中将。私は新トルコ語をまだ勉強中なのですが……」
「構わんよ。では局長には私から話を通しておくから、日程を空けておいてくれ」


   この突然の出張のことを家族に伝えると、父上は怪訝な顔で大丈夫か――と尋ねた。
「ザカ中将はお前に国際会議の経験を増やしてやろうとしているのだろうが……、しかし新トルコ語も話せないお前では却って足を引っ張ることになるのではないか」
「ザカ中将に聞いたら構わないって。俺も出張までにもう少し勉強するけど」
「今から勉強するといっても、あと二週間も無いだろう。ゼロから勉強したところで挨拶程度しか……」
「あ、今は新聞や簡単な本なら読めるようになったよ。新トルコ王国の書類案件に取り組みながら、ヴァロワ卿が教えてくれたんだ」
   この数ヶ月のことを俺は誰にも話していなかった。ヴァロワ卿とのことを告げると、父上は言った。
「お前にとっては良い勉強の機会を与えてもらったのだな。ヴァロワ中将も忙しいだろうに……。そもそも陸軍部所属で海軍部の書類の面倒を見るとは……」
「海軍部のものでも他国案件はヴァロワ卿が取り組んでるよ。新トルコ王国の案件は特に。訳せる人間が少ないとかで」
「……まったく不勉強な者達が揃っているものだ」
「でもロイ。本当に大丈夫なの? ご迷惑にならない?」
「出来る限り勉強していくよ」
「本部で新トルコ語を話せる人間が居ないのなら、誰が行っても同じだ。……新聞が多少読めるならハインリヒの方がまだましだ」
   この日、ルディは出張中で不在だった。昨日からハノーファーに行っていて、三日後に帰宅することになっていた。外交官となってから、ルディは家を出る機会が増えた。そんな忙しい毎日を送るルディを母上は案じていた。だから俺としても、今のルディに何か頼むことは出来なかった。


[2012.6.19]
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