過去の一頁



   入省して半年が経つ。
   士官学校の頃は定期的に試験があったから成績が明確で、いつも上位に位置付けていたからそれなりに自信もあった。
   だが入省してからというもの、そうした評価が見えづらくなった。また何もかもが変わってしまって右往左往するばかりで、不安になることがある。
   俺はもしかしてロートリンゲン家の人間だから今の立場に居られるのではないのか――と。実は仕事の出来ない人間で、軍では用無しの存在なのではないか――と。


「確かにボッロメロの理論には少し無理があるな。前半は実証を踏まえての理論で納得するが、後半には理論の飛躍がある」
「ヴァロワ卿もそうお考えでしたか。一度読んで、どうも納得出来なくて読み返してみたのですが、やはり納得出来なかったのですよ」
「トリスタンは読んだか? ボッロメロよりトリスタンの方がより理論的だ。尤も独創性に少し欠けるが」
「トリスタンを読んだ後でボッロメロを読んだので、余計にボッロメロの理論が理解出来なかったのです。最近、読んで面白かったのはルピノの……」
   三十分前にルディが軍務局にやって来た。少し仕事が残っていて、それを済ませるまで帰宅を待ってもらっていたところ、ルディとヴァロワ卿が話を始めた。ヴァロワ卿の机の上にあった本がきっかけだった。
   ルディとヴァロワ卿は楽しそうに話をしている。ヴァロワ卿が読書家だということは、上官達から聞き知っていたが、まさか此処までとは思わなかった。
   ルディの相手を出来る人間が、こんなすぐ側に居るなんて――。

   ルディはいつになく楽しそうに話をしている。ヴァロワ卿も話を弾ませている。対して俺は二人の話題についていけない。無学だと言われればその通りだが、ルディの読書量が半端ではないことはよく知っている。だからどちらかというと、ルディの知識量が多すぎるということも言えるが――。
   そのルディに劣らないヴァロワ卿に感服する。一体いつ、本を読んでいるのだろう。それとも軍の将官となるとこれぐらいの知識は当然なのだろうか。
   やはり俺は――。
   俺程度の能力ではこの軍では何も出来ないのではないのだろうか。





「それは彼の仕事量を見ればよく解る」
   週末になり、リビングで団欒を取っている時に、何気なくルディとヴァロワ卿のことを話題に出した。ルディは頭痛がするといって早々に自室に戻っていった。そのため、今この部屋に居るのは、父上と母上、それに俺の三人だけだった。
「仕事量?」
「一人で二人分の仕事は容易に済ませる。書類を読むのも早い。当初は私も驚いて、きちんと読んでいるのかと確かめた程だ」
「でも人より仕事が早いと言っても、ヴァロワ卿、いつも帰宅が遅いのに……。いつ本を読んでいるのかと思うよ」
「読みたいものは徹夜をしてでも読むと聞いたことがある。それに休憩時間にも本を広げていることもあるからな」
「まあ……。睡眠時間を削って?」
   母上が驚いて尋ねると、父上は苦笑混じりに頷いた。
「そういう男なんだ。唯一の憂さ晴らしが読書のようだ。自宅は本ばかりで足の踏み場の無い状態になっていると言っていた」
   それはどんな状態なのだろう――思わず想像した。本が何冊も積み上がり、床を占拠しているのは想像がつくようでつかない。
「尊敬するよ、本当に。仕事も人の倍以上はこなすし……」
「彼は語学も堪能だ。国際会議であまりに流暢に話すので、驚いたことがある」
「軍務局内でも他国からの電話は全部ヴァロワ卿が担当してるよ」
「殆どの言語を話せるそうだ。あれほど優秀な人材は滅多に居ないな」
「一体いつ勉強したんだろう……」
   ヴァロワ卿は生真面目ではあるが、机にばかり向かっているような人間とも思えない。時事は全て把握しているし、射撃での命中率は抜群だとの噂も聞いたことがある。尤も人間関係の情報には疎いとザカ中将は言っていたが。
「士官学校の在学中に語学を修得したらしい。基礎科目に選択制で語学があっただろう」
「ビザンツ語と連邦語だったかな。それは俺も修得したけど……」
「希望すれば語学講座は帝国大学から教官を呼び寄せて、新規に開講してもらえる。それを利用して、言語を習ったそうだ」
   士官学校にそういう制度があることを初めて知った。それを学生時代に知っていたヴァロワ卿にも驚いたが、何よりも課外講座をいくつも受講していたことに驚いた。士官学校は普通の学校よりも必修講義数が多いのに――。
「試験の時、大変だっただろうね」
「それでいて抜群の成績だったようだ。ハインリヒ、お前も語学は今からでも習っておいた方が良いぞ。ヴァロワ中将ほどとは言わんが、せめて近隣諸国のものはな」
「……父上は何カ国語が使えるの?」
   そういえば父上からそうした話を聞いたことがなかった。国際会議によく出席していたことを考えると、もしかしたら数カ国語を操れるのかもしれない。
「私はビザンツ語、連邦語、新トルコ語の三ヶ国語のみだ」
「……新トルコ語も話せるの!?」
「新トルコ王国は小国だが無視の出来ない国だ。だから修得した。お前もやる気があるのなら、語学学校に行くなり家庭教師でも雇って習うと良い」
   俺はかなり暢気だったのだろうか。いざという時には外務省の係員が通訳をしてくれるから、語学をそれほど重要視してこなかった。
「ルディは……、何カ国語を勉強したのかな……」
「お前はすぐフェルディナントに頼ろうとする」
   父上は眉根を潜めてそう言った。解らないことはルディに聞けば、大抵のことは解る――俺はいつもそう思っていた。学生時代のレポート作成も手伝ってもらったことがあるし、今でも時事に関することはルディに尋ねている。ルディはまるで生き字引のようだから――。
「ルディも殆どの言語を話せる筈よ。大学の時、何カ国語も勉強していたから」
   ルディとヴァロワ卿の会話を思い出す。やはり、俺は何事に関しても不勉強なのだろう。
   俺も新トルコ語ぐらいは習得しよう。


   早速、新トルコ語の参考書を手に入れた。基礎の基礎からはじめたが、仕事も忙しいため、帰宅してから一日に一時間程しか費やせない。おまけに何とか参考書を一冊読み終え、いざ実際に本を読んでみようとしても遅々として進まない。
   あまりルディに頼るなという父上の言葉に従って、ルディには新トルコ語の勉強を始めたことをまだ告げていなかった。確かにルディも忙しそうで、これ以上のことを頼んだら、倒れてしまいかねない。


[2012.6.18]
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