翌朝、いつも通りに出勤して執務室で書類を整理していたところ、宰相から電話が入った。アルフレッド大将が辞職届を提出したという。陸軍長官が辞職するようだ――と、局内でも早朝から囁かれていた。
「解った。今から其方に行く」
   執務室を出て、廊下を歩いていたところで、フォン・シェリング大将の姿が見えた。どうやら同じ方向に進んでいるということは、彼もこれから立候補を表明しに行くのだろう。時間をずらすことも考えたが、どちらにせよ、同じことだ。
   前を行くフォン・シェリング大将には海軍長官も同行していた。彼が推薦するということなのかもしれない。
   彼等が宰相室の前に到着する。それほど距離を置いていた訳でもないのに、フォン・シェリング大将は此方にまったく気付かなかった。フォン・シェリング大将が入室したあとで、宰相室の扉を叩く。
   どうぞ――と秘書官の声が聞こえる。そして奥に通される。先にその場に居たフォン・シェリング大将達が眼を見開いて此方を見遣った。特にフォン・シェリング大将は不快感を露わにした。
「何故、君が此処に居るのかね」
「宰相閣下に陸軍長官への立候補を表明に参りました」
「分不相応な。君は自分の立場が解っておらんのか!」
「フォン・シェリング大将。言葉を慎み下さい。大将となり五年の経験を経ているのですから、ヴァロワ大将にも立候補の権利はあります」
   宰相が静かに告げる。宰相の側には副宰相も控えていた。
「宰相閣下。このような男を長官に指名したら、帝国は滅んでしまいますぞ……! 陛下への忠誠心も疑わしい。貴卿が推薦したのだろうが、誤った判断ですぞ」
「私はこれまでの功績からも、ヴァロワ大将を支持します。ですが、今回、ヴァロワ大将を推薦したのは私ではありません」
「ほう? 亡きお父上が推薦人とでも? 死人にそのような権限がありましたかな」
「フォン・シェリング大将。発言には御注意を」
   副宰相が注意を促す。フォン・シェリング大将はぎろりと副宰相を睨み付けた。
「昨日、陛下の御前でアルフレッド大将が辞職の意を告げたあと、陛下が私にお告げになったことです。陸軍部軍務局のヴァロワ大将を陸軍長官に推薦したい――と」
   その話は表向きには伏せておくのだろうと思っていた。まさかこの場でフォン・シェリング大将に告げるとは――。
   釘を刺したということか。
   フォン・シェリング大将は言葉を失った様子で、青ざめた。どうやら予想していなかったことなのだろう。
「しかし陛下が省の人事について発言することは、省の統制を乱すことになりかねない。ですから、ヴァロワ大将には御自身で立候補するという形を取らせて頂きました」
   フォン・シェリング大将は次の言葉が続かない様子だった。宰相は平然たる様子で、フォン・シェリング大将と私を見、お二方の立候補を受け付けました――と告げた。
「立候補を募るのは明後日までです。明明後日に、記述試験ならびに陛下による試問試験を行います。お二方とも御準備を。そして陛下より指名が下ったのちは、異論をお唱えにならないように」


   軍務省は騒然とした。私が立候補したことは瞬く間に軍務省を駆け巡っていった。執務室に戻ろうとすると、陸軍部の大将達が私を呼びつけ、分不相応だの協調性がなさ過ぎるだの、立候補をすぐに取り下げろだの、説得を始めた。
「事の重大さが解っているのかね!? 君の身勝手な発言がどれだけ迷惑をかけているか……!」
   いつ終わるのだろう――。
   ちらちらと時計を見、執務が残っていることを告げたものの、大将達は一向に私を解放しようとしなかった。
   拷問の如き説得から解放された時には、五時間も経っていた。遅い昼食を摂り、執務室に戻ってから朝から溜まった書類に眼を通していく。処理が一段落したと思ったのも束の間、別件の書類が回されてきた。午後5時を疾うに過ぎていた。通常なら翌日の仕事となるところだが、おそらく他の大将達が故意に仕事を回してきたのだろう。
   明日の朝、取り組んでも良いが――。
「……済ませてしまうか」
   朝になればまた書類を持ち込まれるだろう。それよりは人が少なくなる今、さっと済ませてしまったほうが良い。
   そうしてその案件を処理し終えて時計を見ると、午後8時を過ぎるところだった。ヴァロワ大将、と呼び掛けられて、無視して立ち去りたい気持を抑えながらも振り返ると、元上官だったキール大将が立っていた。
「何でしょう?」
「私の部屋に来なさい」
   また説教か――。
「所用がありますので、また後日にお願いします」
   此方としては最大限に丁寧に言ったのに、キール大将は所用だと?と青筋を浮かび上がらせて言った。
「君の勝手な行動は眼に余る! 元上官として君のこれ以上の暴虐ぶりは見ていられん」
   暴虐と来たか。
   キール大将はこれまで私にどれほど仕事を押しつけてきたか、忘れているのだろう。それに、上官といっても名ばかりの上官だった。アントン中将の許に居た時のように、何かを教えてもらったこともない。私は仕事の殆どをアントン中将の許に居る時に習った。不備が多いと書類を何度も突き返されたことや、作戦が甘いと怒鳴られたことは数え切れないほどある。だがそうしたことは全て私の血肉となった。もしアントン中将が生きていて、キール大将と同じようなことを言ったのなら、私は彼の言葉に従っただろう。しかしキール大将に対して、そうする気持は全く生じて来なかった。
「キール大将。私は今はもう貴方の部下ではありません。たとえ命令と言われようと、私は私自身の権利を行使します」
「貴様……ッ!」
「忙しいので失礼します」
「貴様が長官となっても誰も従いはせんぞ……!? その時になって後悔しても遅いのだからな!」
   キール大将の言葉を背に受けながら、その場を退散した。
   そのようなことは解っていた。今の大将達は私が命令を下しても、動きもしないだろう。大幅な人事異動が必要となってくる。
   尤もまだそれ以前の段階だが――。


   漸く宿舎に帰宅出来る――と思ったら、軍務省を出るなり尾行が始まった。大通りで騒ぎになってはならないと思い、回り道をして立ち止まる。刹那、五人の男達が武器を手に襲い掛かってくる。
「ヴァロワ卿!」
   同時に、何処からともなくハインリヒが現れた。一人、二人、三人と此方が二人を相手にしている間に鮮やかに暴漢を倒していく。
「ハインリヒ……」
「怪我はありませんか?」
   ハインリヒは私の方を顧みる。男達が襲い掛かって来てすぐにハインリヒが現れたということは――。
「ずっと見張っていたのか……?」
   驚いてハインリヒに問うと、ハインリヒは肩を竦めて、ええまあ、と応えた。
「流石に相手も軍内部でヴァロワ卿に危害は加えないでしょう。却って帰宅時を狙うのではないかと……。ルディがそうだったので……」
   ハインリヒは一度は帰宅したのだろう。私服に身を包ませていた。
「気持はありがたいが、私のことなら大丈夫だ」
「宰相命令だそうですよ、ヴァロワ卿。事態が落ち着くまでの間、私がヴァロワ卿の護衛にあたるように、と」
「宰相が……?」
「ええ。陛下の命令でもあったようです。今日から暫くの間、私はヴァロワ卿の部屋の隣を借り受けました。何かあったら報せて下さい」
「部屋を借り受けた……って、宿舎に寝泊まりするのか? 宰相の護衛は?」
「事態が終息するまでの間、ルディには車通勤を」
「しかし……、宿舎で大丈夫なのか?」
   一抹の不安を覚えた。良家の子息として育ったハインリヒは一人暮らしの経験が無い。士官学校は寮生活で、寮母が居て、食事や洗濯は任せることが出来た。一人暮らしとは少し違う。そのことを問い掛けると、ハインリヒは笑みを浮かべて言った。
「いいえ。それは出来ませんので、ミクラス夫人に頼みました。ヴァロワ卿にも試験に集中出来る環境をと、ミクラス夫人が炊事と掃除を済ませてくれるそうですよ」
「あ、いや。私のことは気を使わないでくれ」
   宿舎に到着した時、時計の針は午後10時を指していた。ハインリヒによると、既に自分の荷物は此方に運んであるらしい。
「ハインリヒ。足の踏み場も無いような部屋だが、寄っていったらどうだ?」
「興味はありますが、ヴァロワ卿のお邪魔になってはいけないので……」
「一時間ぐらい構わんさ」
   ハインリヒを誘い、部屋の鍵を開けた時、自分の眼を疑った。部屋の中は荒れ果てており、服や靴は切り裂かれ、本も破られ、パソコンやテレビといった電化製品まで壊されていた。
「ヴァロワ卿、これは……」
「これまでにない嫌がらせだな。替えの軍服も見事に切り裂かれている」
   部屋の片隅に軍服の残骸らしきものが見えた。布の切れ端の量から察するに、この部屋にあった全ての衣服を切り裂いたのだろう。
「軍服……。ヴァロワ卿、儀礼用のマントは!?」
「……此方においてあるから、おそらく切り裂かれているだろうな」
   自宅に何か危害を加えられたら、携帯電話に何か通報が入る。何の連絡も無いということは、自宅は今のところ無事なのだろう。郊外に自宅を所有しているということは意外に知られていないから――。
   クローゼットを開くまでもなく、その近くでマントは切り裂かれていた。繕うことの出来る程度ではなかった。布きれの残りが散らばっている状態だった。
「ヴァロワ卿。邸にいらして下さい。これではあまりに危険すぎます」
「いや。私がロートリンゲン家に行けば、宰相の立場も危うくなる。それにこれは低俗な嫌がらせに過ぎない」
「ヴァロワ卿……」
「それにもし私が長官となったら、このようなことは日常茶飯事に起こるだろう。多少のことなら、私自身も慣れているから大丈夫だ」
   ハインリヒは私を凝と見つめ、それから部屋を見渡して言った。
「では今晩は私の部屋で休んで下さい」
   寝室もゴミだらけの状態で、流石にこんな夜中に片付ける気分にはなれず、ハインリヒの厚意をありがたく受け取ることにした。


[2011.8.26]
Back>>2<<Next
Galleryへ戻る