疾風



   先週から軍務省は騒々しさを増していた。
   現陸軍長官であるアルフレッド大将の収賄事件が発覚した。省内で発覚したことなら、彼を支援するフォン・シェリング大将がもみ消しただろう。だが、今回は財務省からの指摘あって発覚したことで、有耶無耶に済ませることは出来ない。アルフレッド大将には、何らかの処分が下ることが明らかだった。
   しかし処分といっても、減俸か謹慎かどちらかだろうと誰もが囁いていた。
「そうでもありませんよ」
   私の執務室にやって来たハインリヒとその話をしていたところ、ハインリヒは声を潜めて意味深な発言をした。大将となってから、執務室として軍務局の一角にある一部屋を与えられた。海軍大将であるハインリヒも、私の部屋からそう遠くない場所に執務室を得ている。ハインリヒがこうして私の部屋にやって来ることもよくあることだった。
「ルディの話では、陛下が事件に酷く不快感を示されているとのことです。ルディ自身もアルフレッド大将の辞任を求めていますし……」
「このような事件が陛下の耳に?」
「ええ。……確証は無いのですが、おそらくハインツ家が動いたのだと思います」
「ハインツ家か……。成程……」
「先日の晩餐会で、ラードルフ小父が陛下と別室に移動して話をしていたのです。おそらくはその時、陛下の御耳に入ったのでしょう」
   ハインツ家の当主、ラードルフ・ハインツは元財務長官で、退官した今も尚、財務省に強い力を持っている。財務省は省のなかでも進歩的な考えを持った人間が多いが、それはラードルフ・ハインツの影響が大きいと聞いている。おまけに、そのハインツ家とロートリンゲン家は、古くから親交がある。
「……しかし、場合によっては最悪の事態を生むぞ。次の陸軍長官がフォン・シェリング大将ということになりかねん」
「ルディはヴァロワ卿を推すつもりですよ」
「私が長官となるのはあり得ないことだ。こうして大将となれたのも、元帥の力あってのこと。他の大将からは忌まれているからな」
「しかし宰相が推薦するのは問題無い筈ですよ。ルディもそう考えて、アルフレッド大将の辞任を求めているのでしょう」
「……そう簡単に物事は動かないと思うが……」
   その時、側にあった電話が鳴った。もう午後八時を過ぎているのに誰だろう。受話器を取って応えると、宰相の声が聞こえて来た。
「宰相?どうした?」
「ヴァロワ卿、申し訳ありませんが、今から宰相室に来ていただけますか?」
「宰相室に……?」



   宰相室には足を踏み入れると、秘書官全員が残っていた。宰相と副宰相も奥に居る筈だから、この時間になっても宰相室全体が稼働していることになる。事態がそれだけ逼迫しているということなのだろう。
「ヴァロワ大将閣下、此方に」
   秘書官が奥の部屋へと案内する。入室すると、宰相と副宰相が待ち受けていた。
「遅くに呼び出して申し訳ありません。オスヴァルト、席を外してくれるか?」
「御意」
   副宰相は此方に会釈してから、部屋を退室する。どうぞ、と宰相は座を勧めた。
「どうやら相当忙しいようだな」
「今日一日、陛下の執務室と宰相室を行ったり来たりでした。軍務省も騒がしいのでは?」
「通常任務に支障が出る程にはな」
   苦笑混じりに応えると、軍務省の様子が眼に浮かびますね――と返してやはり苦笑した。
「おそらく今週末までこの騒動は続くでしょう」
「今週末? 何か見通しが立ったのか?」
   まさかわざわざそのことを話すために、私を呼びつけた訳ではないだろう。それならばハインリヒもこの場に呼んだ筈だ。何か任務あってのことだろうが――。

「つい先程、陛下の御前で、アルフレッド大将が辞職の意を固めました。ヴァロワ卿、明日の朝、陸軍長官への立候補を表明して下さい」

   長官に立候補――。
   本気で私を推薦するつもりなのか――。
「私を推薦したら、宰相までも共倒れになる。それに私が長官となっても、大将達が反発するだけだ」
「ヴァロワ卿。ヴァロワ卿を長官にとは、陛下の御意向なのです」
「陛下の……!?」
   何故、皇帝が一将官にすぎない私を長官に推薦しようとしているのか――。旧領主層出身でもなく、おまけに話をしたこともないのに――。
「私が陛下にヴァロワ卿のことを推薦するより先に、陛下から指名がありました。陛下はヴァロワ卿の功績もよく御存知です。……これは想像ですが、おそらく父が陛下にヴァロワ卿のことを言い残したのだと思います」

   元帥が――。
   そういえば――。
   そういえば言っていた。大将となった時、ロートリンゲン家を訪れた際のことだ。私のことを陛下の耳にいれておく――と。
   まさか、本当に――。
「ヴァロワ卿。どうか立候補を表明なさって下さい。アルフレッド大将が辞職することで、フォン・シェリング大将が名乗りを挙げるでしょう。彼に対抗できるのはヴァロワ卿だけです」
   自分が長官に立候補するなど考えたこともなかった。
   将官となれれば充分だと考えていた。昇級も派閥にも興味は無かった。
   ただひとつ――。
   少しでも軍を変えたいと、その一心で、単独で突っ走ってきた。
   約束を守るために。

「私が長官となっても大将は賛同しない。……軍は荒れるぞ」
「私はそうは思わないのですよ。最近、ヴァロワ卿に賛同する人々が増えてきています。特に支部を中心に。本部は暫く荒れるでしょうが、それは長年の膿が溜まっているからのこと。ヴァロワ卿が長官となれば、軍は変わります」
「簡単な話ではない。おまけに全省を巻き込むことにもなりかねない」
「私はむしろ変革を望みます。……以前、ヴァロワ卿も仰っていたではないですか。少しでも軍を変えたいと……。今がその時期なのです」
   お願いします――と宰相は私を見つめる。確かに好機といえるだろう。だが、私が長官となると、その反発から業務が停滞することになるのではないだろうか。
「この名を出すのは憚られますが、敢えて言います。ヴァロワ卿、ザカ中将が御存命だったら、ヴァロワ卿の背を押した筈です」
   軍を変えたい――。
   確かに私はそう考えてきた。私の出来る範囲内のことで、今の腐敗した軍を変えたい。それはザカ中将の墓前で約束したことでもある――。
「……その名を出されたら痛いな」
「すみません。ですがヴァロワ卿、私は今回のことは、軍を変える好機だと思っているのです」
「フォン・シェリング大将が立てばこの先もずっと彼が軍を牛耳ることになる。ハインリヒが海軍長官となる迄の間は特にな。私は彼のやり方を好まないし、今の軍のあり方にも異論を持っている。だが、荒れるぞ」
「承知しています。ヴァロワ卿が先程仰っていた通り、この国は軍が変われば他の省も変わる……私もそう考えています。そのための混乱は旧領主家と政府上層部を中心に生じるもの――これは私自身、覚悟の上です」
   宰相は確りと此方を見据える。こういう表情を見せる時は、覚悟が備わっているということだ。
   ならば――。
   私も出来る限りのことを尽くすか――。

「解った。立候補を表明する」
   そう応えると、宰相は安堵の表情を浮かべた。
「明日の朝、アルフレッド大将が私の許に辞表を提出します。受理して陛下に伝えた後、ヴァロワ卿に連絡しますので、その後で私の許に立候補の表明にいらして下さい」
   宰相は立候補から後の流れを説明してくれた。本部に所属して陸軍長官は一度、海軍長官は二度代わっており、その時の状況は目の当たりにしている。立候補表明は三日間受け付けられ、その後、試験が執り行われる。昇級試験の時のような記述試験と宰相による試問――、これから暫くの間は学生時代のように気の抜けない期間を過ごすことになる。
「それからヴァロワ卿、身辺には充分御注意を」
「これから色々と騒がしくなるだろうな」
   宰相室を後にして軍務局に戻る。ハインリヒはまだ執務室に残っているのだろう。ハインリヒの執務室の扉を叩くと、返事が聞こえて来た。
「お疲れ様です。これから御帰宅ですか?」
「ああ。そのつもりだが、その前に報せておくことがあってな」
   ハインリヒには伝えておかねばならないだろう。私自身の口から。
「明日、正式に表明するが、長官に立候補することにした」
   ハインリヒはその眼を見開いた。それから表情を緩めて、頑張って下さい――と告げた。
「ヴァロワ卿が適任だと思います。私も出来る限りのことは手伝いますので」
「ありがとう。まずは指名されるまでが問題だがな」
「正々堂々とした争いならヴァロワ卿が選ばれることに間違いありませんが、対抗馬がフォン・シェリング大将でしょうし……。どんな手段を使ってくるか解りませんから……」


[2011.8.20]
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