入省して初めての休暇は、落ち着いた休息を取りたくて、実家に帰った。士官学校に入学してからは寮生活で、入省してからは首都アンカラから遠いシャプール支部に配属されたため、支部に近い場所に一室を借りて一人暮らしを始めた。そのため、ここ数年は実家でのんびり過ごすこともなかった。
「お仕事はどう?」
   帰宅した日は父も母も家に居て、共に珈琲を飲みながら暫く寛いだ。やはりこの空間が一番落ち着ける。
「なかなか難しいこともあってね」
   そう応えると父は面白そうに笑みを浮かべた。
「色々な経験をすると良い。必ずお前の血肉となる」
   軍人となる――と言った時も反対されなかったのは、父がこういう人間だからだろう。一代で会社を築き、今や国内シェア第一位の会社にまで上り詰めている。経験を積めというのは、父のいつもの言葉だった。
「……悪事に手を染めるのも経験?」
   思わず尋ねてみたくなった。父だったらどうするだろう。
「自分で責任を取れる範囲内のことだ。良いか、アブドュル。言葉にも行動にも責任を取る。そのためには何か自分の信念が無くてはな」
   父の言葉は、何となく解る。悪事に手を染めるな――とは言わないだろうなとは思っていた。自分に責任の取れる範囲内か。
   だとしたら俺には、今の軍で横行している裏帳簿やら人事取引といったものは加担出来ない。責任が取れない。俺自身がそうしたものに悪意を持っている。やはり俺には悪事は無理だ。


   その晩、恋人のミトラに連絡を取ろうか――と携帯電話を取り出した時、突然  、着信音が鳴り響いた。
   ギラン先輩だった。士官学校時代、寮の同じ部屋で過ごした先輩で、今は本部で大佐を務めている。
「久しぶりだ。元気か?」
「ギラン先輩こそ。お久しぶりです」
   俺より4つ上で、寮で一緒に過ごしたのは一年間だけだったが、ギラン先輩とは時々連絡を取り合っていた。面倒見の良い先輩で、様々なことを教えてくれた。
「あ、ギラン大佐とお呼びしなくてはいけませんね」
「呼称などどうとでも良いさ。ところで今、何処に居る?」
「実家に居ますよ。明後日まで休暇なので」
「話をしたいのだが、明日、空いているか?」
   明日か――。
   空いていないことはない。ミトラをデートに誘おうかと考えていただけで。
   まあそれはまた明後日でも良いか――。
「空いていますよ。何時頃、何処に行きましょうか?」
   午後1時に士官学校に程近いカフェで、ギラン先輩と会うことになった。電話よりも会って話をしたいんだと先輩は言った。何か積もる話でもあるのだろうか。



   翌日、待ち合わせた場所に行くと、ギラン先輩が既に店の個室で待ち受けていた。遅れてはいないのだが、どうやら先輩の方が早く来たようだった。
「お久しぶりです。お変わりなさそうですね」
「お前もな。聞いたぞ。ミスバーフ中将の許に挨拶に行かなかったんだってな」
   ギラン先輩は辛辣な表情で言う。御留守だと思っていたのですよ――と返すと、それも聞いた、と先輩は言った。
「そんな准将達のことは相手にしなくて良い。お前はミスバーフ中将の命令だけを聞いていろ」
「ミスバーフ中将からもそのようなことを言われましたが……、准将方のことをまるきり無視することも出来ませんよ」
「どうせ手伝いばかりさせられているのだろう?」
「それはそうですが……」
「ならば適当にあしらっておけ。それぐらいの要領は身につけろ」
   どうやら俺を呼び出したのは説教のためらしい――。
「そうしてもらわなくては困る。そのために俺は、お前をミスバーフ中将の支部に送り込んだのだぞ」
「え……?」

   どういうことだ――。
   ギラン先輩がミスバーフ中将の許に俺を行かせた?

「軍内部の腐りきった様子はお前も見えていると思う。それを正すためにも、そして本当に能力のある奴に上層部に入ってもらうためにも、私やバース准将と同じように考える将官達に掛け合って、お前をシャプール支部に配属させたんだ。そうでなければ、出来の良いお前は飼い殺しの眼に合うからな」
   驚いて言葉が出なかった。ただ、ギラン先輩を見つめていた。
「アブドュル。お前は軍が今のままで良いと思うか?」
「いいえ……」
   それに対しては即答出来た。俺自身、この僅かな間に目の当たりにしてきたことは、少しも良いことはなかった。
「バース准将も俺も、そして他の将官達も軍を変えたいと思っている。良い方向にな。己の利益のみを追及する軍人達をゆくゆくは排除したい。この考えには賛同出来るか?」
   驚いた――。ギラン先輩が其処まで考えていたことに――。
「はい」
   それでも、すぐに賛同出来た。俺の歩むべき道が少し見えてきたような気もする――。
「だったら、お前は早く昇進しろ。ミスバーフ中将はお前のことをきちんと評価してくれる。この前、話した時も仕事が早いと仰っていたぞ」
「もしかして……、ミスバーフ中将はそのために俺に仕事を任せてくれたのですか……?」
「ああ。仕事熱心で処理も早いと仰っていた。ミスバーフ中将は無愛想で礼儀を重んじる方だが、話の解らない方ではない。此方側の人間だ」
   俺はもしかしたら、何もかも見くびっていたのかもしれない。俺自身はこのふた月、与えられた仕事を済ませる以外、何もしていない。それに比べて、ギラン先輩は信念を持って動いていたのか。
   急に自分が情けない存在に思えてきた。
「俺は……、暢気でしたね」
「まあな。尤も、事が事だけに、お前が入省するまでは何も話が出来なくてな。バース准将にも会ったことはないだろう?」
「はい」
「今度紹介する。マームーン中将にもな。イムラーンも元気だぞ」
「そうですか……。本部にはそうした考えをお持ちの方が多いのですね」
「まさか。その逆だ。俺以外は皆、支部所属だ。偶に顔を合わせて意見を交換し合っている」
   本部は魔の巣窟だ――と、ギラン中将は苦笑混じりに言った。
「俺もいつまで本部に居られるか解らない。だから出来るだけお前には早く昇進してほしいんだ」
「でも俺はまだ少佐となったばかりで……」
「最短で3年で准将になれる。お前にはその素質がある。出来れば大佐となった2年後には本部に所属させたい」
「ギラン先輩……」
「それと、今日会いたかったのはもうひとつ話があったからだ」
   ギラン先輩は珈琲を飲んでから、再び俺を見遣った。


[2011.5.14]
Back>>2<<Next
Galleryへ戻る