約束



   軍内部は腐っているとは聞いていたが――。
「ああ、そうだ。サラーフ大将の息子らしい。採用試験はすれすれの点数だったらしいが、本部に滑り込ませたそうだ。で、それを取り計らったアトラシュ中将が来月、大将に昇格だとさ」
「ハリーファ准将も、裏帳簿の調整で今度は少将に昇格だと聞いたぞ」
「そのぐらい軍に貢献しないと昇進出来ないということさ」
   人事の件も裏帳簿の件も噂では聞いたことがある。が、こんな場所でさえ話せるということは、軍全体が、組織全体が腐っている証拠ではないか。解りきってはいたことだが、いざ目の当たりにすると辟易する。
「ムラト少佐。君も覚えておくことだ。昇級するには上層部の役に立つことをしなければ、真面目一方ではいつまで経っても昇級出来ないぞ」
   俺の後方で話をしていた准将達がそう俺に声をかける。彼等の方を見てから言った。
「御忠告、ありがとうございます」
   当たり障りのない言葉を告げる。昇進したいとは思うが、悪事に手を染めてまでは望んでいない。それがために将官となれないのだとしたら、それで良い。軍のことを本当に考えるのなら、人事の取引や裏帳簿の存在を明るみに出すことこそが重要ではないか。
「そういえば君は……、大会社の息子だと聞いたが」
   彼は俺を見つめながら尋ねる。こうした話の次に来る話はいつも決まっていた。
「何故、軍人に? 黙って座っていても金は余るほど入って来るだろう?」
「何だ? そんなに大会社なのか?」
「アルフ自動車だ。ほら、あの国産車では常に首位に立つ大会社の……」
「え? アルフ自動車の息子だったのか!?」
   実家が自動車会社だという話は、何処からとなく伝わっているらしい。名前からは解らないから、俺が言わない限りは気付かれないと思っていたのだが――。
   尤も隠す必要のないことでもある。
「ところで、ミスバーフ中将閣下はまだ此方にお見えにならないのですか?」
   何となく話題を転じた。この支部はミスバーフ中将が支部長を務めている。だが、俺が此処に来てもうじきひと月が経つが、まだ顔を見ていない。留守中とのことだが――。
「まだお留守だ」
「では……、いつ此方にお帰りに? 一言御挨拶しておかないと……」
「お帰りになったら報せるよ。先程の書類の整理は終わったか?」
   准将達に宛がわれた仕事を終えて、次の仕事に取りかかろうとしていたところだった。それにしても支部長がひと月も不在とは――。



   定時より二時間が過ぎて、漸く今日の仕事が一段落し、帰宅の途につくことにした。もう将官達は帰宅していて、おまけに大尉や中尉達もそれほど仕事熱心ではないから、この部屋に残っている者は居なかった。
   机の上を整理して、重要な書類を棚の中にいれて鍵をかける。ロッカーへ行き、鞄を取り出したその時、コツンコツンと誰かの足音が聞こえた。
   もう誰も来ない筈だが――。
   扉が開く。この部屋にノックも無しに入るということは将官か、それとも佐官級の人物の筈だ。
   初老の男が驚いた様子で此方を見た。誰だろう。見たことの無い顔だ。
   階級章を見た。中将の章があった。
   中将……?
   まさか――。
「……確か君は先月配属したムラト少佐だな」
   胸元には支部長であることを示す章がある。間違いない。この人がミスバーフ中将だ――。
「失礼致しました! アブドュル・ムラト少佐です。ミスバーフ中将閣下には、初めてお目にかかります」
   ミスバーフ中将はずっと留守だと、准将達が言っていたではないか。今日、突然帰ってきたのか。
「配属されたら先に上官の許に挨拶に来るものだ」
「はっ。申し訳御座いません。ずっと御留守だと伺っていたもので……」
「留守? 誰がそうだと?」
   ミスバーフ中将は眉を顰める。もしかして、留守ではなかったのか。では何故、留守だなどと嘘を――。
「……カダフ准将達が……。暫く留守になさっている……と」
   ミスバーフ中将は苦々しい顔をして、困ったものだ――と呟いた。

   もしかして――。
   俺は騙されたのか。しかし何故? 何故、騙された?

「シャプール支部長アリー・ミスバーフ中将だ。私はいつも執務室に居る」
「そうでしたか……。申し訳御座いませんでした」
「騙した方が悪いが、君も執務室を覗くぐらいの行動はしてほしかったな。将官達は皆、人を蹴落として昇進しようとする。君が士官学校を優秀な成績で卒業したことはもう広まっているから、カダフ准将達は邪魔をしたのだろう」
   俺は首席で卒業した。まさかそれがこんな形で応酬を受けるとは思わなかったが、ミスバーフ中将の言ったとおりなのだろう。
   こんな風に人に騙されたのは初めてだ――。
   そのことにショックを受けていた。
「仕事内容は? 准将達の補佐をしているのか?」
「あ……、はい」
「君自身が受け持つ仕事は? 無いのか?」
「いいえ、まだ……。先月、配属されたばかりだということで、まずは上官達の手伝いを命じられています」
「ならば、この書類の案件は君に頼もう。処理を終えたら私の許に提出してくれ」
「は、はい!」
   案件を任せられた――。まだ入省してひと月なのに――。
「書類の保管には細心の注意を。それから、君の上官はこの私だ。何かあれば、私に直接報告しなさい」
   ミスバーフ中将はそう言って、部屋を去っていった。

   准将達のことや、ミスバーフ中将と会ったこと、仕事を任されたことなど、色々なことが同時に舞い込んで、何が何だか訳が解らなくなってきた。家に帰ったら、頭のなかを整理しよう――そう考えながら帰路に着いた。


[2011.5.11]
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