そして今回もまた――、嫌がらせのように、上官は当日になってから、翻訳されていない原文のままの資料を手渡してきた。
   資料を読むには多くの将官が控える部屋よりも、外の方が集中出来る。そう考えて広場で眼を通していたら、部下がやって来た。
「ヴァロワ中将。急ぎ眼を通して頂きたい書類があるのですが」
   書類の処理のために、部屋に戻らなくてはならない。部屋に戻ると、また次々と書類が舞い込んでくるだろうから、出立までの間は翻訳に取りかかることは難しいだろう。
   こんな時に限って――と思うが、仕方が無い。部下に非は無い。非があるのは上官だ。
「解った。すぐ部屋に戻る」
   その予想通り、部屋に戻るとたった数十分席を外していただけなのに、書類の束が置かれていた。中将となってからは上官の大将から仕事を言いつけられることが多い。それも准将や大佐に任せても良いような書類を回してくる。そうして書類を片付けるうちに出立の時間となった。何とか処理を済ませて、慌ただしく部屋を出る。すぐに空港に行かなければならない。


   空港に到着すると、既に全員が搭乗を終えており、俺が最後に駆け込んだ。
   軍事関係の会議には軍務省と外務省の担当者が参加する。軍務省からは大将1人と俺を含めて中将が2人列席することになっていた。他の軍人は護衛として付き添っており、会議には直接関係が無い。あとは外務省の関係者も高官が3人といったところだろう――と思っていたら、機内に入って驚いた。いつもは空席の目立つ機内が、今日は空席が無いに等しかった。
   とりあえずは上官の姿を探した。大将ともう一人の中将は前の方に座っている。その近くには外務省の長官が座っていた。その最前列の席が空いてはいたが、其処に座るとなると、資料を読めなくなるような気がする。
   その背後に護衛を務める士官達が座しており、その後ろからずらりとスーツを纏った一団が座っている。よく見ると、皆若く、見覚えの無い顔ばかりだった。そういえば以前にもこういうことがあった。外務省に新たに入省した者達が研修のために会議に参加することがある。今回もそうなのだろう。
   もし上官に呼ばれたら、直ちに上官の許に行かなければならない。すぐに動くことの出来る通路側の席が空いていないか、見渡してみる。あった。中程の席で、一人の青年が腰掛けている隣が空いていた。近付くと、彼は熱心に書類に眼を通しているところだった。

「済まないが、この席に座っても良いか?」
   青年はすぐに顔を上げて、はい、どうぞと快く応えた。繊細で綺麗な面立ちをした男だった。眉目秀麗という言葉は彼のような人間のためにあるのだろう。こんなに美形の青年が入省して、宮殿内の女性達はさぞ騒いでいるに違いない。今でも彼の近くにいる若い女性達はちらちらと彼に視線を送って囁いているのだから。
   青年はそんな視線も気にしていないのか、手許の資料を持って立ち上がった。
「私が通路側に座りますので、中将閣下はどうぞ奥に」
「いや、却って通路側の方が良いんだ。動きやすい」
   座るように促すと、彼は大人しくそれに従った。立ち上がった時に気付いたが、俺と同じぐらいの長身だった。それによく中将だと解ったものだ。軍務省の人間ならまだしも、他省の人間は制服にある階級章に気付かない者が多い。
   階級章が解るのか――と、問い掛けようとして止めた。話をするよりもやらなければならないことがある。移動中にこの資料全てに眼を通しておかなければ。

   座席に腰を下ろし、すぐに資料と辞書を取り出す。隣に座っていた青年がちらと此方を見ているのが解った。会議間近のこのような時になって、資料を訳すのかと呆れたのかもしれない。
   構わず資料に視線を落とし、読み進めていく。両国間の長年の懸案事項に触れた厄介な資料だった。手際良く読み進めないと会議までに読み終えないな――そう思いながら1ページ目を読み終えかけた時、隣の青年が声をかけてきた。
「何だ?」
   悪いとは思ったが、書類を読みながら応えた。時間が無かった。
「その資料、今回の議題に関係する資料とお見受けします。軍務省の方には外務省が翻訳したものが配布されていると聞き及びましたが……」
「配布から漏れてしまってね」
   そう応えるのは穏当だろう。2ページ目を捲ると、彼は自分の持っていたファイルケースを取り出した。ごそりと中身を探る。
「宜しければお使い下さい。私が訳したものですから間違えているところもあるかもしれませんが……。参考程度になれば」
   彼はクリップで留めた紙の束を差し出した。考えてもいなかったことだった。それに研修生達は直接会議に関係なく、傍聴だけの筈なのに全部訳したというのか。
「それはありがたいが……。君は資料を全部読んでいるのか?」
「ええ、一通りは。前回の資料のデータも持っていますので、必要であれば添えますけど……」
「ああ、いや。前回の物は持っている。今回の分……此方だけ借りることにしよう」
   青年の翻訳したものを読むのにさして時間はかからなかった。そればかりか、彼は要所にチェックをいれているから、何が要点なのか解りやすく、読みやすい。必要なところをメモに取って、青年に礼を述べた。
「ありがとう、助かった。随分丁寧に纏めてあるのだな。こんなに纏まったものを見るのは初めてだ」
「チェックが入っていて見苦しいものでしょうが、宜しければお使い下さい」
「君は?必要無いのか?」
「ええ。出立前に何度か眼を通しましたし。私達、外務省の研修生は会議に直接参加する訳ではありませんから」
「では……、ありがたく借りさせてもらう。……と、私は君の名前すら聞いていなかったな」
   青年は人の良さそうな笑みを浮かべ、一礼して言った。
「此方こそ出過ぎた真似をすみません。私はフェルディナント・ルディ・ロートリンゲンと申します」
「ロートリンゲン……!?」
   思わず問い返す。青年は、はいと頷いた。
「では……、先日退官なさったロートリンゲン元帥の御子息か」
   道理で階級をすぐに言い当てた筈だ。
   そう言えば噂で耳にしていた。ロートリンゲン家は次男が軍務省に、長男が外務省の官吏として入省するのだ、と。何でも長男は身体が弱く、士官学校に入ることは出来なかったのだという。確かに、肌は陽に焼けておらず、透けるように白い。
   しかしこうして見る限り、身体の弱そうな様子は見て取れない。穏和な青年という印象しかない。
   だが――、ロートリンゲン元帥の長男は、外交官の試験をトップでパスしたのだという噂があった。何でも2位とかなり差があったという。ロートリンゲン家の人間だということもあるし、将来的には長官に上り詰めるのではないかという噂も既に立っていた。
「そうだったのか……。私はロートリンゲン元帥閣下には随分世話になった身だ。陸軍部ジャン・ヴァロワ中将だ。よろしく」
「陸軍部……、では参謀本部に御所属なさっているのですか?」
「いや、私は軍務局所属でね。大将閣下の部隊の一員でも無かったのだが……。面白いもので、君の父君と話をしたのもこの機内だった」
   奇妙な縁だった。ロートリンゲン元帥に初めて声をかけられた場所で、その息子と居合わせて、それもまた同じように助けてもらうとは。
「そうでしたか……。父はまったく仕事の話をしなかったので……」
「閣下らしい」
   そう告げると、フェルディナント・ルディ・ロートリンゲンは苦笑した。よく見ると、ロートリンゲン元帥の面影がある。尤も大将よりは繊細な顔立ちで、雰囲気がまったく違う。穏やかな美青年といった風だった。



   フェルディナント・ルディ・ロートリンゲンのおかげで、会議には恙なく参加出来た。親子二代に渡り世話になるとは思わなかったが、帰路の機内でまた彼と言葉を交わした。話をしていて気付いたが、随分な勉強家のようだった。
「閣下はいつも御自分で資料を訳されるのですか?」
「軍務省も色々あってな。君の父上が在籍なさっていた頃は、父上の計らいで翻訳した資料を貰っていた。外務省の一人が資料を手配してくれていたのだが、その彼が先日事故で亡くなってしまってな」
「そうでしたか……」
「省内にも詰まらないことが沢山ある。まあ、自分の勉強と思うしか無い」
「閣下。もしご迷惑でなければ、私が翻訳しても宜しいでしょうか?」
   息子の方も旧領主層らしくないと見た。
   意地の悪い旧領主層なら、俺が懸命に翻訳しているのを笑って眺めていたことだろう。それか、彼のように親切に資料を見せてくれたとしても、何か魂胆を孕んでいるに違いなかった。旧領主層とはそういう種の人間ばかりなのだから。
   だが、彼の様子は厚意からのものであることは疑いようがなかった。
   彼はまた翻訳した資料を提供してくれるという。あれだけ見事な訳と、要点を纏めた資料の恩恵に預かれるのは嬉しいことだった。しかし、彼も昇進に向けて日々忙しい筈だ。その勉学を阻む訳にもいかない。
「いや。君には君のやるべきことがあるだろう」
「外交資料には全部眼を通しているんです。そう手間がかかることでもありませんから」
「……全部?全会議の内容を読んでいるというのか?」
「ええ。趣味のようなものです」
   フェルディナント・ルディ・ロートリンゲンは微笑んでさらりと応える。どうやら噂に違わず、とんでもない人材のようだ。入省当初から外務省の長官候補と目されるだけのことはある。
「では……、君に迷惑がかからない程度で」
「解りました。軍事関係の資料がありましたら、閣下の許にお届けします」
   本当に良いのだろうか――と思わずにはいられなかったが、折角のありがたい申し出を断る理由も無かった。


[2009.11.20]
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