ロートリンゲン家の長男――フェルディナント・ルディ・ロートリンゲンとは、その後、宮殿内の通路で何度か顔を合わせた。旧領主層の出身といっても、第一印象通りの人物で、人を見下すような態度の全く無い、好青年だった。その彼が軍務省に書類を携えてやって来たのは、3月が終わり、4月が始まった日のことだった。

「ヴァロワ中将閣下。此方の書類に眼を通していただきたいのですが」
   ちょうど一人の少将が部屋を出ようとした時だった。少将は彼の姿を見ると、自分より年下の青年なのに恐縮して、丁寧な挨拶をする。旧領主層ということを意識してのことだろう。丁寧な挨拶をされた方は困ったような表情を浮かべ、一礼する。
   通路で彼を見かけると、よくそうした光景を眼にする。他の旧領主層の子息は、そうした挨拶に対して一瞥をくれるだけの者ばかりだが、フェルディナント・ルディ・ロートリンゲンは違った。丁寧な挨拶に困ったような表情を浮かべて、必ず一礼を返す。その点からも旧領主層らしくない人物だった。
   その少将が部屋を出て行くと、ちょうど皆出払ってしまったところで、この部屋には俺しか残っていなかった。
「君が書類を持って来るとは思わなかったな」
   書類を受け取りながらざっと眼を通す。いつもの担当者が不在だったのだろうかと思ったが、書類自体が彼によって作成されたもののようだった。曖昧な表現の無い、簡潔で整った文章が彼らしさを物語っていた。
「此方の案件、私が担当となりました」
「……入省して3ヶ月で担当を任されたのか?頭脳明晰とは聞いているが流石だな」
   驚いた。たった3ヶ月でそれだけの実力を示すとは。
   しかし此方の感心とは逆に、彼は首を横に振った。
「いいえ。きっと実力だけではないのだと思います。家名で優遇されているかと」
   彼はきっぱりとそう言った。その言葉にさらに驚いた。自分が担当を任された経緯をそんな風に冷静に受け取っているとは思わなかった。まだ若いのだから、実力に溺れてもおかしくはないのに。
「謙虚だな、君は」
「入省する前、父からよく聞かされました。今の省内に実力のみで判断してくれる場所はない。ロートリンゲンという家名が無ければ、実力があっても通用しない、それをよく頭に入れておくように、と。私もそう思います」
「君の父君は手厳しいな」
   だがそれは確かにその通りかもしれない。もし彼が旧領主層でないとしたら、これほど短期間に仕事を任されることもなかっただろう。如何に優秀であっても。
「それでも君の能力が認められたということだ。まず第一歩としてな」
   彼は嬉しそうに微笑した。本当に官吏としては珍しい種の人間で、またこんな旧領主層は彼の父親以外で初めて見た。こうなると、今日の午後に此方にやって来るという彼の弟が余計に気になる。

   今朝のことだった。本部の将官と佐官が長官から召集を受けた。今日、士官学校を卒業し、3ヶ月間の研修を終えたばかりの新人の大佐が、本部に配属されるのだという。入隊したばかりなのに既に大佐だということは、士官学校の幼年コース出身者なのだろう。きっとエリート面をした奴に違いない――そう思っていたところ、同じ部屋の少将達が語り合っているのが聞こえた。
『新人というのはロートリンゲン元帥閣下の息子らしいぞ』
『ああ。随分な切れ者だって噂だ。海軍部所属で研修中も頭角を現していたらしい』
『それはすごいな。俺達なんかあっという間に追い抜かれていくのだろうな。上層部もロートリンゲン元帥閣下の息子だということで、出迎えの準備までしているらしいぞ』
   軍務省でも何度か噂に上っている次男のことだろう。本部に配属になったとは知らなかった。尤も、少将達が知っているということは、俺にだけ知らされていなかったのかもしれない。
   それにしても、どんな男か気になる。長男のように気さくな男だろうか、それともエリート面をした男だろうか――。

   今は午前11時過ぎだった。きっとあと2時間程で此方に挨拶にやってくるのだろう。
「君の弟も今日の午後、此方に配属になると通達があった」
「ええ。研修を終えて漸く帝都に戻れると昨晩連絡がありました」
「では暫く会っていなかったのか?」
「研修中は自宅に戻っていません。電話で連絡は取り合っていましたが、私も3ヶ月ぶりに弟に会えます」
   彼は嬉しそうに話した。その様子から察するに兄弟仲は良いのだろう。もしかすると、そう悪い人間ではないのかもしれない――そんな気がした。
   彼の作成した書類に一通り眼を通し、サインをしてから手渡す。彼はありがとうございましたと述べてから、部屋を去っていった。



   朝の仕事時間が終了し、昼休憩も終わりに近付くと周囲が慌ただしくなり始めた。少将達が話していたように、大将の一人が出迎えの準備をすると言う。旧領主層の子息の大佐となると、一般人の大佐との扱いに随分な差があるではないか――そう思わずにいられなかった。同時に、彼の行動が馬鹿馬鹿しく見えた。しかも大将ばかりでなく少将や准将達もそれに賛同する。
「ロートリンゲン家の御子息をお迎え出来るとは」
   先程から大将が落ち着かない。自分の部屋で挨拶に来るのを待っていれば良いのに、この部屋を歩き回る。
「大将閣下。どうぞ閣下の執務室でお待ちください」
   思いあまってそう告げると、うむ、しかしだな、と悩むように呟きつつ、傍と時計を見遣った。
「や、もう到着の15分前ではないか。皆、立って出迎えなさい」
   大佐一人迎えるのに大した出迎えだ――もうこうなると呆れるのを通り越して、喜劇をみているような気分になる。

   大将の命令に従って立って待つこと5分、さらに待つこと5分、完全に冷めてしまっている俺以外の全員が、まるで何かの有名人が来るのを待っているかのようにざわめいていた。俺自身も冷めているといっても、まったく興味が沸かない訳ではないが。

   扉を叩く音が聞こえた。続いて、失礼します、と声が聞こえてくる。
   何処かで聞いたような声だった。長男の声に似ているのだろうか? ――否、違う。この声の響きを俺は知っているような。

   扉が開く。出迎えに出た大将と准将が先に部屋に入る。そして、扉の前に若い青年が立った。
「あ……」
   均整の取れた身体付きに、精悍な顔つき。澄んだ、強い眼差しを発する瞳。その姿を見て、驚いて声を発してしまい、すぐに口を噤んだ。しかし声は既に大将の耳に届いていたようで、彼はぎろりと此方を睨んで言った。
「どうしたかね?ヴァロワ中将」
「いいえ、失礼しました」
   その時、青年の方も此方に気付いて、眼を丸くした。


   去年の末、任務で郊外の駐屯地へと行った。その際、士官学校時代から馴染みにしている酒場に立ち寄った。店主が気の良い人間で、足繁く通うようになった酒場だった。
   其処で、一人の士官学校生と出会った。本当は軍人になりたくなかったと言っていた士官学校生――その青年が、今、眼の前に居た。
   それもロートリンゲン元帥の息子として。
   ルイとかロブとかそんな名前だったような気がする。
   彼は此方を見て、少し表情を緩めたかに見えた。しかしそれも一瞬のことで、すぐに皆に向かって敬礼して言った。
「本日をもって、本部に配属となりましたハインリヒ・ロイ・ロートリンゲン大佐です。よろしくお願いします」
   ああ、そうだ。ロイという名だ――。
   兄の方は柔和で繊細そうな印象を与えるが、弟の方は精悍な顔つきで、ロートリンゲン元帥を思い起こさせる。しかしよく見れば、兄の方ともよく似ているではないか――。

   大将から順に将官達が自己紹介をして握手を交わす。俺の順番になった時、ロートリンゲン家の次男は俺を見つめてよろしくお願いします、と言った。その眼は笑みを湛えているようにも見えた。
「陸軍部軍務局所属、ジャン・ヴァロワ中将だ。よろしく」
   握手を交わす。その時、彼は兄と同じ表情で笑みを浮かべた。
   思わずその笑みを見つめた。その笑みは父親のロートリンゲン元帥とよく似ているように、俺には見えた。

【END】


[2009.11.21]
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