そのロートリンゲン大将の厚意によって、楽に会議を乗り切ることが出来た。
   ロートリンゲン大将とはどんな人物なのか、気にはなったが調べる暇も無く月日が流れていった。そんなある日のこと、また会議に参加することを命じられた。会議の開催が決まったのなら、資料がもう手許にあっても良いだろうに、上官は資料について何ひとつ口にしなかった。きっと当日になって資料を手渡されるのだろう。そう思いながら、自分の席に戻り暫くすると、一人の男が俺の許にやって来た。男は外務省の人間だと告げた。
『ヴァロワ准将。ロートリンゲン大将閣下がこれをお渡しするようにと』
『ロートリンゲン大将閣下が?』
   まさかと思いながら書類を見ると、それはやはり翻訳された資料の束だった。
『以後、私が准将に直接、資料をお届けするよう命じられました。陸軍部担当書記官のヴァルカー・ホフマンと申します』
『閣下がそのようなことまで……。言付かってきたということは、閣下は今、部屋にいらっしゃるのか?』
『ええ、おそらくは』
『解った。ありがとう。今後も宜しく頼む』
   外務省所属の若い男は一礼すると部屋を出て行った。それを見届けてからすぐに、ロートリンゲン大将の部屋へと向かう。


   大将級には一人一部屋、執務室が与えられる。軍務省のある同じ階ではあるが、それは奥の方にあって俺などはそれまで足を伸ばしたことが無かった。ロートリンゲン大将の執務室の前まで行き、扉を叩くと、大佐級の男が応対に出る。名乗ってから大将に会いたい旨を告げると、彼は其処で少し待つように告げた。すると、部屋の奥から通すようにロートリンゲン大将の声が聞こえてくる。
『閣下。会議の資料、どうもありがとうございます』
   ロートリンゲン大将は机に向かっていたところだった。彼の机の上は何枚かの書類と国防に関する書籍が見受けられた。
『何、本来なら君の上官が渡さなければならないというだけのことだ。気にする必要は無い』
   ロートリンゲン大将は机の上で手を組み、俺を見て言った。
『君のように優秀な者を飼い殺しにさせる方が間違ったことだ。……ところで昇級試験の話はまだ来ないか』
『昇級試験ですか……?』
『准将としての実務経験年数、功績とも、昇級に相応しいではないか。君の上官に話はしたのだが、まだ耳に入っていないようだな』
   昇級試験のことなど一切聞いていない。きっと上官に握り潰されたのだろう。しかし何故、ロートリンゲン大将が俺の昇級にまで口を挟んだのだろう。
『……閣下。ありがたいお話ですが、閣下は何故私を?』
   旧領主層に眼をかけられる覚えなど全く無かった。疎んじられて当然なのに、このロートリンゲン大将は違う。それが何故なのか、見当もつかない。
『アントン中将から色々話を聞き、これまでの君の功績も調べさせてもらった。君の能力は現時点でも大将級に充分匹敵すると私は考えている。それなのに未だ准将だということは、上層部が君を抑えているからだろう』
   アントン中将は嘗て、ロートリンゲン大将の部隊に所属していたことがあったらしい。そのため、ロートリンゲン大将とは旧知の仲なのだということだった。あの旧領主層にあまり良い感情を抱いていないアントン中将が、ロートリンゲン大将と懇意にしていたという事実に俺は驚いた。
『三ヶ月前だったか、それこそ10年ぶりにアントン中将と話をする機会があって、君のことを聞き知った。実力だけで最短で准将にのぼりつめた男が居る――とな。だが今の帝国にあって実力だけで昇級出来るのは准将までだ』
   確かにその通りだと思う。それに俺の場合、上官がアントン中将だったから昇級出来たようなものだった。
『君のような優秀な人材を雑務に忙殺させておくのは国益にも反する。君が上手く立ち回れば、今頃中将となっていてもおかしくはないと思うが……、君は世渡りが下手なようだ』
『私を買いかぶりすぎではありませんか?閣下』
   苦笑して応えると、ロートリンゲン大将は呆れたように返した。
『出世欲が無いとアントン中将が言っていたが、本当にそのようだな。元々、大学への進学を志望していたと聞いている。それが閉鎖されて士官学校に入学したのだと。今でも軍人は嫌なのか』
『士官学校に入学した時に、大学進学は諦めています。軍人となると決めたからには、自分に出来ることを務めるつもりです』
   ロートリンゲン大将はその精悍な顔つきに笑みを浮かべて、君のように決断力と気骨のある軍人は今の帝国に少ない――と評した。そんなことはない。単に物事への割り切りが良いだけだった。
『率直に言おう。私は君の後ろ盾となるつもりだが、不服か?』
『閣下が私の後ろ盾に……?ですが……』
『無論、昇級試験や功績に力を貸す訳ではない。ただ君を他の者達と同じ土台に乗せてやるだけのことだ』
   後は実力次第だ――ロートリンゲン大将はそう言った。





   あれから5年――。
   ロートリンゲン大将は3ヶ月前に退官した。その理由は、息子が軍に入隊するためだということだった。親子で勤務するつもりはない――と彼は笑って言っていた。その決断はロートリンゲン大将らしいと思った。
   そして俺は彼が在籍していた5年の間に、中将まで昇進した。俺の昇進を阻もうとする勢力はあり、功績を打ち消されるということもあったが、ロートリンゲン大将がいつも俺を庇ってくれた。何故、ロートリンゲン大将が一介の軍人に過ぎないジャン・ヴァロワを庇うのか――と省内で様々な噂が飛び交ったが、それに対してもロートリンゲン大将は毅然たる様子で言い放った。
『実績のある者が昇級することに何の異議がある?優秀な者を昇級させることは、人事に関する陛下のご意向に沿うものではないか』
   ロートリンゲン大将は、旧領主層のなかでは随分変わった御仁だった。家名よりも実力と実績を重んじる。また、剛毅で実直な性格から、皇帝と諍いを起こしたこともあるらしい。詳細は知らないが、何においても裏表の無い、意見を率直に述べる人だった。旧領主層にもこんな人がいるのだ――と俺は初めて知った。

   退官を迎える前日、俺はロートリンゲン大将の許に挨拶に行った。部屋は既に綺麗に整理されていて、その部屋に何度か足を踏み入れたことのある身としては、それをみると一抹の寂しさを覚えた。
『陛下に君のことは伝えてある。人事採用については家名よりも実績を重視する御方だから、今後の昇進にも問題は無いだろう』
   それを聞いた時、耳を疑った。俺は中将で充分だと思っていた。
『え……!?』
『陛下も興味を示していらした。これまであまり若い人材がいなかったからな。そして帝国の行く末を思えば、私は君が長官たるに相応しい才覚を持っていると思っている。陛下にもそうお伝えしておいた』
   ちょっと待て。長官だって――!?
   あまりに話が飛躍しすぎて、どう応えて良いか解らなかった。
『大将となり5年の経験があれば長官となる機会も訪れる。この私を落胆させてくれるなよ、ヴァロワ中将』
   言葉を失った俺に、ロートリンゲン大将は苦笑する。徐に机の引き出しを開けて、小さな四角い箱を取り出す。
『困ったことがあればいつでも連絡しなさい』
   箱のなかから取り出した名刺を差し出しながら、彼は言った。
『偶には邸にも来なさい。もう私は退官するのだから、旧領主層と癒着していると誹られることもないだろう』
『ありがとうございます。閣下』

   その翌日、ロートリンゲン大将は長年の功労から、皇帝より元帥の称号を与えられ、軍務省を去っていった。彼の退官を惜しむ声は多かった。特にそれは旧領主層に属しない人々にとって。俺自身も、こういう人こそが上に立つ人間なのだと思っていた。
   ロートリンゲン大将は、有り余る財力で芸術家の育成や保護にも力を入れていると言う。先日も、ニュースで報じられていた。ロートリンゲン家が帝国北部にある町で、新人の芸術家のための美術展を開催した、と。退官後は夫人と旅行をするのだ――と、いつだったか俺に語っていた。テレビに映る大将の隣には夫人が居たから、きっとそれを実行に移しているのだろう。

   しかし不幸なことがひとつあって、彼が退官するのとほぼ同時に、それまで俺に資料を密かに渡してくれていたホフマンが通勤中の事故で亡くなった。翻訳の資料だけでなく、必要とあらば色々な資料を見せてくれた人物だっただけに、彼の死は俺にとってはかなりの痛手だった。上官が他の将官達と同じように翻訳した資料をくれる筈も無く、その後はまた自分で資料を訳して会議に臨むようになっていた。


[2009.11.19]
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