出会い〜帝国暦269年4月



『会議の資料だ。きちんと全てに眼を通しておくように』
   上官の言葉が頭のなかで何度も木霊する。出立が午前10時――これから1時間後だというのに、相手国側の資料が原文のままだということがあるものか。関係者全員には翻訳されたものが疾うに配布されているに決まっている。

   ジャン・ヴァロワは怒りを抑えるために息をひとつ吐いた。こんなことは今に始まったことではない。将官となった頃から――それ以外にもこうしたことは入隊した頃からあったことではないか。怒って時間を無駄にするよりも、この資料を早々に翻訳して頭に入れておかなければならない。

   資料は10数枚に及ぶ。出立まで1時間ある。移動には3時間かかるから、資料を読む時間は合わせて4時間残されている。会議が午後3時からで、会議場に到着してからも少しは時間がある。翻訳して質疑の内容を考えるのに、ぎりぎりの時間だった。そうとなれば、すぐに取りかかるか――。


   宮殿の表側は各省の本部がある。本部に配属されたのは准将となって3年目のことだった。それまではビザンツ王国と国境を接する帝国北方の駐屯地に勤務していた。冬の寒さは厳しかったが、将官として1つの部屋を与えられていたし、本部との繋がりもそれほど強いところではなかったから気楽なものだった。
   俺は駐屯地間の異動はあっても、本部に異動となることなど無いだろうと思っていた。ところが、6年前、本部所属の准将級が不在となり、准将経験者として本部への配属が命じられた。

   本部は宮殿の表側にあり、他の省庁の本部もあることから、部屋数が限られている。大将級以外の将官はひとつの部屋に纏められていた。准将となると将官の一番下の階級であるから、上官である少将や中将から様々な雑務が言いつけられる。本部に配属されたはじめの2年間は雑務に追われる毎日だった。
   それに本部の将官となると他国との会議にも出席しなければならない。今回のように翻訳されていない資料を手渡され、会議が始まるまでの間はそれこそ1分の休みもなくそれに眼を通す。おまけに、会議後にはすぐに書類を作成しなければならない。したがって会議となると1日中働くことも少なくなく、下手をすれば執務室に居残って夜を徹し、翌日まで書類に取り組むことにもなった。

   そうした激務は全て俺のような庶民出の者に任せられる。軍務省は各省のなかでも特に、旧領主層の力が強い省だった。もともと旧領主というのは皇族の領土拡大に従い、歴戦を勝ち抜いた将軍達だった。それが子々孫々に受け継がれ、今でも武門として名を馳せている。
   そんな旧領主層には様々な特権があり、たとえば彼等は広大な領地を有している。その領地に人々を住まわせて商売をさせ、利益を獲得する旧領主層も少なくない。国民の平等が一応は宣言されているとはいえ、実質的には皇族の下に旧領主層がいて、彼等が権力を恣にしていた。
   現皇帝の時代になって、官吏登用に試験が用いられることになり、官吏のなかに一般人が増えたといっても、旧領主層の力が強く、実力だけでの出世はまず不可能だった。それは昇級試験の制度のあり方に原因がある。
   昇級試験は各省で行われ、それは不定期的に行われるものだった。自分の上司によって昇級に足ると認められた時に、昇級試験が実施される。つまり、上司が承諾するまでは昇級試験に臨むことも出来ない。そのため、上司に賄賂を送る者も居る。

   勿論、試験を突破しなければどうしようも無いが、こうした制度上の問題から旧領主層の子息となると出世も早くなる。旧領主層であれば一定の条件を突破すれば、すぐに昇級試験を受けさせてもらえる。俺のような庶民出の一般人は如何に功績を積み上げても、上官に恵まれなければ昇級試験を受けられない。だから、出世のために、一般人は旧領主層に媚び諂う。同僚達もそうした者ばかりで、旧領主層に取り入って出世を遂げていた。

   俺はそうした関係が嫌で、ただ流れに任せて昇級試験を受けてきた。佐官だった頃は上官に恵まれていた。陸軍部のアントン中将は昇級試験の制度のあり方に異論を持った人で、功績により誰にでも昇級試験を受けさせてくれた。そのため俺も准将となるまでは士官学校上級士官コース卒としては最短の年数しかかからなかった。

   准将となったその年にアントン中将が別の駐屯地に異動となり、今度は旧領主層に与する中将が上官となった。彼は自分自身が本部に転属されたい一心だったから、部下の昇級には何の興味も示さなかった。それどころか、それを阻んでいた風もある。

   もともと俺は、将官止まりで出世は充分だと考えていた。将官となれれば充分な給料も得られる。准将となってからは、毎日を暢気に過ごしていた。俺は元々文学に興味があって、大学も文学部に進む予定だった。それが突然の政府の方針で学部が閉鎖されることが決められ、入学予定者は軍の士官学校に入るか、進学を諦めて就職するしかなかった。
   そのため一度は第一志望を諦めたが、准将となって少し余裕の出来るとまた本を読み漁るようになった。帝都郊外に家も買った。休暇の時にしか其方に帰ることは出来ないが、木々に囲まれて長閑な良い所だった。その家の庭に面したバルコニーで、のんびり本を読んで過ごすのは至福のひとときだった。俺はそれで満足していた。

   それが本部に転属となってから一変した。雑務を押しつけられる毎日を送ることとなった。
   その頃、俺の下には大佐が居た。彼は旧領主層の息子で、昇級試験のための勉学に励むばかりで職務は俺に回す、とんでもない男だった。おかげで仕事は倍増した。また、旧領主層に取り入ろうとしない俺を、上官達が疎んじ始めた。却ってこのまま疎んじられて転属された方が楽だ――と思ったのに、彼等は雑用係にはちょうど良いとでも思ったのか、すぐに転属命令を出すことはなかった。
   俺の職務上の失敗を見つけ、それを理由に降格・転属をと考えていたようで、それに気付いた時、誰が失敗などしてやるものかと俺に火が点いた。会議の際、翻訳されていない資料を手渡すのも、彼等の嫌がらせのようなものだった。あの頃の俺は将官のなかで一番忙しい将官だっただろう。


   それが本部に転属となって1年目のある時のことだった。いつものように機内で資料を翻訳していると会議に参加する大将級の一人が、俺の側にやって来て、手許を見て言った。
『その資料は今回の会議の参加者全員に翻訳が配布されている筈だ。君は自分で訳して内容を確かめているのか?』
   陸軍の大物――旧領主層の1人だということは知っていた。同じ陸軍に所属しながら、こうして顔を合わせるのはそれが初めてだった。
『……いいえ。私は翻訳されたものを持っていませんので』
『持っていない?忘れてきたのか?』
『元々私には配布されていないのです』
   何故この人は知っているであろうことを尋ねるのだろう――、嫌みな人だと思った。ところがその大将は、持っていた自分のファイルケースを開くと、書類の束を手渡した。
『チェックが入っているから読みづらいかもしれないが、今から全てを訳すよりは良いだろう。会議の始まる前に返してくれれば良い』
   ありがたいことに翻訳された資料が全て揃っていた。旧領主層の大物と目されている人物が、何の風の吹き回しかと思ったが、ありがたく書類を借りることにした。
『ありがとうございます。読み終えたらすぐにお返しします』
『君、名前は?』
『失礼しました。陸軍部所属、ジャン・ヴァロワ准将です』
   彼は軽く眼を見張り、そして少し笑みを浮かべたかのように見えた。
『そうか。成程、君がヴァロワ准将か……。フランツ・ヨーゼフ・ロートリンゲン大将だ。君の話はアントン中将からよく聞いていた』

   それが当時、陸軍部参謀本部参謀長を務めていたロートリンゲン大将との出会いだった。
   ロートリンゲン家という名家の当主で、旧領主層のなかでもその家名は古く、軍務省のなかでも一目置かれる存在だった。
   この時の俺はロートリンゲン大将について、その程度の知識しか持っていなかった。そんな旧領主層の大物が何故、俺に声をかけてきたのか、そしてアントン中将はこの人に何を話したのか気になったぐらいだった。


[2009.11.18]
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