「残業、終わったか?」
   ザカ中将が声をかけてきたのは、ちょうど最後の書類を処理し終えた時だった。今終わったところですよ――と返すと、食事に行かないかと問われる。快諾し、軍服の上に上着を羽織って外に出る。外はまだ冷たい風が吹いていた。
   宮殿から程近い場所にあるレストランへと足を運ぶ。外とは対照的に、店内は暖かかった。個室を頼み、料理とワインを注文する。片側の窓から見える宮殿を見遣って、ザカ中将は口を開いた。
「本部も相変わらずだな。否、以前よりも状況は悪くなっているように見える」
「今年に入ってから、大幅な人事異動もありましたからね」
「元帥が退官した途端、フォン・シェリング家の独占か。出来ることなら、もう少し元帥には留まって頂きたかった」
「息子と共に勤める気はないと断言なさっていましたから」
「元帥らしいが、後に残された者としては少々困るな」
   ウェイターが持って来たワインを飲んでから、ザカ中将は苦笑する。
「海軍部はもともとフォン・ビューロー家やフォン・バイエルン家がフォン・シェリング家の威風を借りて仁王立ちしているから、フォン・シェリング家の影響が強い。そのせいもあって、大佐は本部内では孤立しているようだな」
   ザカ中将は、滞在中は同じ軍務局の部屋に居る。軍務局は陸軍も海軍も同じ部屋だが部屋自体が広く、部屋の真ん中で陸軍と海軍とに分けられ、其処からさらに課ごとに纏まっている。私とハインリヒの席は大分離れているが、姿がまったく見えない程ではなかった。
「ええ。腫れ物に触れるような感じですよ。彼に仕事を教える者も居ません。陸軍参謀本部にでも配属されていたら、また違ったのでしょうが」
「フォン・シェリング家がそれを避けたのだろう。大佐はむしろ、支部に配属されたほうが良かっただろうな。支部の方が人員はまともだ」
   今の状況は少し可哀想だ――とザカ中将は言った。
   確かに同じ軍務局に居て、ハインリヒを見ていると同じように感じることがある。私のように雑務を押しつけられる訳でもなく、ただ其処に居ることだけを求められているようだった。居心地悪そうなハインリヒを見て、時間があるのなら資料を読めと促したこともある。尤もそうするだけでも、上官から睨まれるのだが。
「上層部は気付いているのだろうな。彼は優秀だからいずれ足下を掬われるのではないかと」
「私達とは別の理由で、上層部に煙たがられていますからね」
「ああ。大佐自身が何処まで状況を把握しているのかは解らんが……。局長は比較的話の解る方だ。意地の悪いことをする方ではないが、押しが弱い。他の将官達は時期が来ると挙ってフォン・シェリング大将の許に行くような連中だから、頼りにならんな」
「今は本部上層部にまともな人間が居ませんから。有能な人材ほど、ある程度昇級するまでは支部に所属したほうが良いのでしょうね」
「同感だ。本部は大佐を飼い殺しにするつもりのようだが、惜しい人材だぞ。ひとつ教えれば、全てを理解する。兄の方がどうしても目立ってしまうが、大佐もかなり優秀だ」
「ええ。一緒に仕事をするとよく解ります。だからこそ、上官から何も教えてもらえないのでしょう」

   ハインリヒが参謀本部に配属されていたら、疾うに頭角を現していただろう。参謀本部には少数だが、まだ元帥の勢力が残っている。陸軍参謀本部所属の将官達は、元帥に見いだされた者が多い。彼等ならハインリヒを正当に評価してくれるだろう。
   だがだからこそ、ハインリヒは其処に配属されなかったのだろう。ロートリンゲン家はここ数代にわたり、陸軍部所属だったというのに、ハインリヒは海軍部に配属された。陸軍からロートリンゲン家の影響力を排除しようと考えてのことに違いない。

「今回の案件にしても、厄介で、誰もがやりたがらないものだ。失敗すれば国際問題となる。つまりは失脚へと繋がる」
「纏めて排除しようと考えているのでしょう」
「だろうな。はじめは元帥あたりが仕組んだのかとも考えたが、どうやらフォン・シェリング大将の人選に間違いなさそうだ」
   ザカ中将は苦笑混じりに言って、またワイングラスを傾ける。それからグラスを置いて私を見た。
「何か問題が発生したら私達が責任を取る。そのことに異存は無いな? ジャン」
「勿論。尤もこんな難問を出されたからこそ、解決してやりたい気持ですがね」
「同感だ。お前の交渉術に期待しているぞ」
「今回は強い味方が居ますからね。フェルディナントの交渉術は巧みですよ」
「噂は支部にも届いている。他国大使にも気に入られているとな」
「温厚ですし、博識ですから。彼はどんな話題を振られてもきちんと答えられますよ」
「彼等にはのびのびと任務に取り組んでもらいたいものだな。良い人材だ」
   まったくその通りだった。人脈形成に明け暮れている将官達よりも、任務への意欲はあるし、何事にも真摯に取り組む。
「仕事をきちんと教えてやれば、大佐は最短で大将となるだろう。そうなってほしいものだ」
「その意味では、今回の任務は好機でしょう。同じ軍務局で私が教えるには限界があります。ザカ中将ならば同じ海軍部ですし……。尤も睨みを利かせている将官が居ますがね」
「安心しろ。明日から2日間は部屋をひとつ借り受けた。参謀本部の持っている一室をな」
   ザカ中将は不敵に笑んだ。今日は会議室を借りることが出来ず、軍務局内で作業せざるを得なかった。明日からの二日間は部屋を借りているとは言っていたが、まさか参謀本部から部屋を借りてくるとは――。
「よくそんなことが出来ましたね」
「参謀本部の管理者が同期なんだ。軍務局で貸してくれないからと頼んだら、快諾してくれたよ」
   やはり軍務局では借りられなかったのか。それにしても参謀本部とは思い切ったものだが。
「では心置きなく仕事に取り組めますね」
「ああ。それと大佐に少し仕事を教えてやりたいと思ってるんだ」
「今日も随分厳しく指導なさっているのが解りましたから。仕事で手に余ることがあったら仰って下さい。私が代わりに務めます」
   今日の仕事でも、ザカ中将が何度もハインリヒにやり直しを命じていた。漸くザカ中将が受け取ると、ハインリヒはほっと安堵したかのような表情をしていた。彼にとっては良い勉強となるだろう。
「ありがとう、ジャン」


   翌日からは参謀本部の一室で作業を行った。四人とも部屋と資料室を何度も往復し、部屋には大量の紙が積み上がっていった。
「この資料だけでは駄目だ。ビザンツ王国の内紛関係の資料も添えるように」
   注意されたハインリヒはすぐに持ってきます――と言って、部屋を後にする。そして五分後には部屋に戻ってくる。どうやら資料を探すことには慣れたようだった。


[2011.3.31]
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