今日のロイは口数も少なかった。帰路でも黙り込んでいて、夕食時も静かで、食事を終えると部屋に向かった。リビングルームで珈琲を飲んでいると、ミクラス夫人が心配そうに私に問い掛けてきた。
「フェルディナント様。もしかして喧嘩でもなさったのですか……?」
「いや。そういう訳ではないんだ」
「ですが、ハインリヒ様の御様子が……」
「少しそっとしておいてやってくれ。ロイなりに考えているのだろうから」
   ミクラス夫人やフリッツ達にはまだ伝えない方が良いだろう。ロイが決心するまでは――。

   海軍長官の件はロイの返答次第となる。ロイが拒めば、本部内の大将から選ばなければならない。そうなると、他の大将達が一斉にフォン・バイエルン大将を推薦するだろう。フォン・バイエルン大将が長官となると、ディールス大将の時よりも難儀するかもしれない。
   ヴァロワ卿がロイが適任だといった理由も解る。というより、ロイ以外に適任が居ない。
   私とて、いずれロイが長官となるだろうとは思っていたが、まさかこんな早い時期に機会が訪れるとは思わなかった。ロイより経験も実績もある大将が居るものだと、漠然と思っていた。
   だがそんな人物は居ない。これまで海軍部が如何にフォン・シェリング大将に蝕まれていたかが解る。あれでは陸軍部も大変だっただろう。今更ながら、ヴァロワ卿の苦労が窺える。

   不意にカチャリと音が聞こえたと思うと、ロイがやって来た。少し良いか――と私を見て問う。頷くと、ロイは私の側に歩み寄って来た。いつもそうするように椅子を勧める。
「……正直なところ、俺はたとえ長官となるとしてももう少し先のことだと思ってた。あれだけの功績のあるヴァロワ卿も去年だっただろう? 父上は最後まで長官とならなかったが、功績はいつも長官に匹敵していた。否、長官以上の功績を持ってた。俺なんかまだ二人の足下にも及ばない」
   父上が生きていたら、きっと笑い飛ばされるな――とロイは苦笑混じりに言った。
「……だがロイ。今の軍の状況には父上も憂うことだろう。……父上は仕事上のことは一切話をしなかったから、軍のなかにおいて父上がどういう立場に居たのかさえ、私は知らない。しかし……、父上はきっと私達が考える以上に職務に忠実だったのだろうと思う。だからこそ、ヴァロワ卿のような方を支援した。……大仰かもしれないが、後世に改革を託したのではないかとも思うことがある」
「……仕事が出来る人だなと思っていると、父上の推薦を受けた人だということが多いんだ。残念ながら海軍部はごくごく少数だがな」
「ロイ……」
「海軍部の現状は俺としても思うところが多い。腐りきった組織で、このままでは軍が形骸化してしまうだろうと思う。……ヴァロワ卿やルディが長官任命の話を持ちかけてから、ずっとそのことを考えていた」
   気が滅入るほどにな――とロイは肩を竦めて言ってから、私を真っ直ぐに見つめた。
「俺は採用試験を受ける。少しでも軍を改善したい。まだヴァロワ卿の足下にも及ばないが、俺に出来るだけのことは務めたい」

   ロイは、覚悟を決めたようだった。
   どれだけの苦難の道か、私が言わずともロイは解っているだろう。否、私以上に解っている筈だ。
「ありがとう。ロイ」
「ルディから礼を言われることではないさ。それに、俺は誰の推薦も受けない。ヴァロワ卿やルディから推薦を受けたとなれば、どうしても馴れ合いに見える。だから、俺は明日にでも立候補を表明する」
   驚いた――。
   ロイがそこまで覚悟を決めていたとは――。
「……ヴァロワ卿や私が推薦せずとも、お前の背後には私達が居ると誰もが勘繰るだろう。それでも構わないのか?」
「ああ。他人がどう思おうと構わないが、俺自身がそうしたいんだ。馴れ合いではなく、ただ俺はヴァロワ卿やルディの考え方に賛同しているだけ――それだけのことだ」
「そうか……。解った」
「フォン・バイエルン大将との一騎打ちとなるだろう。どんな手を使ってくるか解らないが、採用試験では勝ってみせる」
   ロイはそう言って笑った。
「では私は黙って見ていよう」
「ああ。そうしてくれ。ヴァロワ卿にも明日、そう伝えるつもりだ。……それから気が早い……というか、もし俺が長官に任命されたら……の話なのだが」
「確かに気が早いな。何だ?」
「次官に大将級を据えても構わないか? 俺はまだ30歳を過ぎたばかりだ。いくら何でも若すぎる。俺より少し年上の人物に次官を任せたいんだ」
「それは私も賛成するが……。一体誰を次官にと考えているんだ?」
「現在のアルジェ支部長、ヘルダーリン大将を。支部所属でなければ、ヘルダーリン大将が第一候補に挙がっただろう」
「お前に匹敵する功績だった。しかし年齢的にみれば、ヘルダーリン大将もまだ若いぞ」
「ああ。だが俺よりは物事がよく見えている人だと思う。……尤もヘルダーリン大将が頷いてくれなければ諦めるが」
   採用試験に受かったら――ということで、ロイに協力する旨を告げた。

   そして宣言通り、翌日、ロイは長官への立候補を表明した。時を同じくして、フォン・バイエルン大将がフォン・シェリング大将をはじめとする海軍大将の推薦を受けて、立候補した。
   若手将官達はロイの支持に回り、中堅将官達は態度を決めかねる者が多かった。軍務省内のこうした動きは各省も注目していた。フォン・シェリング家かロートリンゲン家か――そのような声を度々耳にした。
「閣下。軍が二分されるようなことにはなりませんか……?」
「多少は影響が出るだろうが、長年の膿を出すには仕方の無いことだ」
   オスヴァルトは案じ、また皇帝も気に掛けていた。私がロイを指名すれば揉め事も起こらないと言っていたが、それでは禍根を残してしまう。それにロイ自身も望んでいない。
   ロイが長官採用試験を受けるということで、邸内もざわめいた。まだお若いではないですか――とミクラス夫人もフリッツも言った。
「私自身も25歳で宰相となった。それにロイは覚悟が出来ているよ」
   静かに見守ってほしいと告げ、兎に角あとはロイに任せた。


   試験が執り行われるまでの間、ロイは帰宅するなり試験対策に勤しんだ。試験では毎回、外交案件に関することも問われるが、いつもなら私のところに尋ねに来るのに、このときばかりは一度も来なかった。一人で資料や本を読んでいるようだった。
   二週間後、試験は厳粛に執り行われた。各省長官と私が列席するなかで、フォン・バイエルン大将とロイが試験に挑んだ。不正行為を防ぐために、長官採用の場合は常にそうしているが、問題の内容が漏れているという噂も立っていた。それが真実かどうかは解らないが、二人の点数はほぼ満点に近いものだった。
筆記試験ののち、私を含め数名の長官の許で、皇帝からの試問が行われた。
   二つの試験の結果、僅差ではあったが、ロイの点数がフォン・バイエルン大将を上回った。そのことに内心で安堵した。
   発表は任命も兼ねて、私が行うことになっていた。ロイもフォン・バイエルン大将も私を見つめていた。
「厳正な審査の結果、ハインリヒ・ロイ・ロートリンゲンを海軍長官に任命する」
   この瞬間、ロイは安堵と喜びを噛み締めるような表情をし、フォン・バイエルン大将は茫然としていた。部屋のなかは騒然とする。ロートリンゲン家がますます力を持つようになる――という声も聞こえて来た。


[2011.3.22]
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