午後5時を過ぎて、ヴァロワ卿が宰相室にやって来た。先に予算関係の話を済ませることにした。軍務省の予算が年々増大している――と以前から財務省のマイヤー卿がぼやいており、確かにここ10年、ずっと増加していた。これまでにも何度か軍務長官に話をしてきたが、善処するという言葉ばかりで実行が伴わなかった。
   ところが去年、ヴァロワ卿が陸軍長官となってから、少し変わった。経費縮減は可能だとヴァロワ卿は言い、その言葉通り、昨年度は不要な武器購入費を削減した。そして各方面から調査した結果、予想はしていたことだが、軍務省の武器購入の9割をフォン・シェリング家傘下の企業が請け負っていることが判明した。
「あとは軍が支払った金がどう流れているか……だが」
「企業からフォン・シェリング家への流れはなかなか把握し辛いでしょうね……。利益の3割から4割という噂を聞いたことがありますが」
「それはまた随分な数字だな」
「あくまで噂ですよ。フォン・シェリング家の資産が計りしれないので、それだけの金銭が何処からどう流れているのか、疑問視する声も結構聞きますからね」
   それだけ財力があるのか、それともそう見せかけているのか。
   ラードルフ小父がそんなことを言っていた。フォン・シェリング家の潤沢な資産の流れは少し奇妙だ――とも。
「……軍の資金が流れていることは間違いない。しかしそれを立証することは、なかなか厳しいな。歯痒いことだが」
「ええ……。実際の購入額に水増しされているのだと思います。それを判明出来たら、此方も追及出来るのですが……」
「引き続き、地道に調査するしかないな」
「ですが、あまり深入りなさらないように。気になる点があれば、此方で調べるので仰って下さい」
   ヴァロワ卿が単独で調査に乗り出しているとなれば、フォン・シェリング家がヴァロワ卿に何かしでかしてくるかもしれない。フォン・シェリング大将にとっては、ヴァロワ卿は眼の上の瘤なのだから――。
「ありがとう。今のところは大丈夫だ」
   予算の話を終える頃には、もう午後6時を過ぎていた。今日の仕事はこれで終わりだったが――。
「ヴァロワ卿。まだお時間はありますか?」
「ああ。構わんが、海軍長官の件か?」
「ええ」
   先に電話をかけさせてくれ――とヴァロワ卿は言って、携帯電話を取り出す。長官室に連絡をいれたようだった。ヴァロワ卿が電話をかけている合間に、オスヴァルトの許に行って今日の業務が終わったら先に帰宅して構わないことを伝える。私はあと一時間ほどヴァロワ卿と話をしようと考えていた。

   執務室に戻ると、ヴァロワ卿は電話を終えていた。オスヴァルトから出力してもらった海軍部将官級の経歴一覧と、陸軍部将官のそれとを机の上に出す。おそらくヴァロワ卿は頭に入れているのだろうが――。
「海軍部の将官と陸軍部の将官の経歴に著しく乖離があると思い、少し調べました。……あまり私がこういうことをすべきではないのでしょうが……」
「いや。他から指摘が無い限り、軍務省は変わることが出来ないのだから仕方が無い。海軍部の昇級は実質的にフォン・シェリング大将次第だ。だから功績の無い者でも大将となれる。逆に大将級に匹敵する功績のある者でも、フォン・シェリング大将の機嫌を損ねたら昇級は出来ない」
「陸軍部も似たような節がありますが、陸軍であるフォン・シェリング大将が何故こんなに海軍部に幅を利かせているのです? ヴァロワ卿が長官となってからという時期からでもないように見えますが……」
「陸軍は元帥が居たから、あまり手出しは出来なかったのだろう。その分、海軍部に幅を利かせたようだ」
   父上が――。
   ああ、だが言われてみればそうだ。ヴァロワ卿も父の推薦を受けて昇級したのだと聞いたことがある。
「尤も最近は、ハインリヒが若手を推薦しているようだがな。大将としては年若いが、きちんとその役目を果たしているぞ」
「経歴を見たところでは確かにロイが適任者のようですね。私としてはヘルダーリン大将も気にかかりますが」
「ヘルダーリン大将は支部だろう? 以前、参謀本部に居たが、彼も仕事の出来る人間だ」
「自ら望んで支部に?」
「さあ……。ハインリヒとちょうど入れ替わりだったのは憶えている。海軍部の若手に有能な人材が居ると思っていたのに、支部異動となったからな」
「まさかロイの入省にあわせて異動となったのですか……?」
「いや、人員過多ということは無い筈だ。大佐一人ぐらい増えてもそう問題は無いからな」
「それなら良いのですが……」
「それで、ハインリヒにこの話は? ディールス大将の辞職の話は瞬く間に軍務省に広がっているぞ」
「今月中には新しい長官を任命したいと思っています。陛下にもその旨を……」
   机の上の電話が鳴る。受話器を取ると聞こえて来たのはロイの声だった。何時頃の帰宅になるかと問い掛けてくる。
「これから宰相室に来てくれないか? 話がある」
「ディールス長官の件なら聞いたぞ。急な辞職だってな」
   ロイはそう言ってから、今から其方に行く――と了承してくれた。あの様子では、まさか自分が長官候補として名が挙がっているとは思ってもいないのだろう。
「海軍部では誰の名が挙がっているのでしょうね」
「それはきっと参謀本部長のフォン・バイエルン大将だな。旧領主家出身でもあるし、おまけにフォン・シェリング大将と仲が良い。ハインリヒと犬猿の仲だが」
   ヴァロワ卿は苦笑混じりに言う。

   程なくして、ロイが鞄を持って現れた。二度のノックの後、扉を開き、ソファに居たヴァロワ卿を見て驚いたようだった。
「お疲れ様です。此方に来てらしたとは思いませんでした」
「重要な話があってな。海軍部でもディールス大将辞職の話は広まっているのだろう?」
   ロイがソファに腰を下ろすと、ヴァロワ卿はそう切り出した。
「ええ。昼からずっとその話題で持ちきりですよ。後任はフォン・バイエルン大将だと皆言っていますし、次の参謀本部長の後任人事の話まで出ていますよ」
   大抵、長官の人事についは宰相室にも話が持ち込まれるものだが、フォン・バイエルン大将の名が挙がっていることはヴァロワ卿から聞き知ったことであり、況してやその後任人事の話まで持ち上がっているとは知らなかった。ヴァロワ卿は呆れた様子で、誰がそんなことを言っているんだ――と言った。
「海軍部大将周辺ですよ。フォン・バイエルン大将でほぼ決まりでしょう。参謀本部長となって年月も長いですし……」
「それ以外の名は?」
「挙がっていません」
   ロイがまだ若いという理由に加えて、ロイが長官となったら彼等の思い通りにならないのが解りきっているからだろう。陸軍はヴァロワ卿、海軍はロイが将官達を率いるとなると、これまでのような不正は罷り通らない。
   これは、確かに好機でもある。軍務省を一新するための。
「ロイ。お前はどうだ?」
「今の軍ならば誰が長官となっても同じだ。大将級はほぼ全員、フォン・シェリング大将側についているからな」
「私が聞いているのは、お前が長官の任命を受ける覚悟はあるのかということだ」

   まったく我が弟ながら――。
   自分にそのような話が持ち込まれるとは、少しも考えていなかったのだろう。
   ロイは驚いて私を見つめていた。
「何で……俺が……」
   茫然と言う。
「経歴を見ると、お前が一番長官に適している。年が若いがな」
「大将となってまだ……」
「先月で五年が過ぎただろう」
   ヴァロワ卿が告げる。ロイ自身、どうやらそのことを忘れていたようだった。
「ハインリヒ。私は是非、お前が長官の任命を引き受けてほしいと思っている。必要とあらば私が推薦人となる」
「ヴァロワ卿……。ですが私は大将のなかでも最も若く……」
「お前は海軍部の人事をどう思っている?」
   ロイの前に、将官達の経歴一覧表を差し出す。ロイはそれを受け取り、一枚一枚に眼を通していった。
「昇級したければフォン・シェリング大将の許へということは、何年も前からの慣行だと知っています。特に海軍部はフォン・シェリング大将の力が強いということは……」
   何枚目かを捲った時、ロイは不意にその手を止めた。
「ロイ?」
   一枚を凝と見つめるロイに呼び掛けると、ロイは傍と顔を上げて、首を横に振った。
「知った名前を見つけて……。本部に居ないと思っていたら、アルジェ支部に居たんだなと」
「アルジェ支部……? もしかしてヘルダーリン大将のことか?」
   ヴァロワ卿が尋ねる。ええ、とロイは頷いた。
「士官候補生の時、この本部に来て報告をしたことがあったんです。その時、フォン・シェリング派の将官に少し絡まれたことがあって、それをヘルダーリン大将が庇ってくれて……。アルジェ支部長となってらしたとは知りませんでした」
「士官候補生の時に報告……?」
「ええ。演習中の艦内でインフルエンザが発生して、乗員全員が罹患してしまうということがあったのです。その時の上官達が皆、報告を拒みまして、それで学生ながら私が……」
「ああ、あの時か。……絡まれたのを助けたのがヘルダーリン大将か。……成程」
   ヴァロワ卿は何か納得した様子で頷いた。推測だが、ロイを庇ったからヘルダーリン大将はアルジェ支部に異動となったのかもしれない。
「……もしかして」
   ロイもそのことに思い当たった様子でヴァロワ卿を見遣った。ヴァロワ卿はそうかもしれないが当人でなければ解らないことだ――と返した。
「庇うと言っても大したことではないと思ったのに……」
「海軍部の人事権はフォン・シェリング大将が握っているのと同じだと言うことは、お前も解っているだろう。この悪習を黙って見過ごすか?」
   ヴァロワ卿の言葉にロイは黙り込んだ。


[2011.3.21]
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