ウールマン卿の後を継ぐ形で長官となって12年。戦前に3年間務めているから、それを会わせると15年。周囲に背を押されてずっとその座に就き続けたが、もう後身に譲っても良いだろう。
   私が辞任したら、人事委員会はおそらくブラマンテ大将を長官に任命する。今のところ、彼が一番長官に相応しい。
   そして私は――。
   長官を辞任して、軍に残ることも出来る。だがそれではきっと、私に遠慮して、誰も長官を引き受けないだろう。私という存在が、新風を遮ることになる。
   そうなるとやはり――。

   私はこのまま辞職した方が良い。60歳。軍人のなかでは、老いた方だ。まだ子供達が小さいことだけが気懸かりだが、入省したときから数えて38年勤務したことになる。そうなると、退職金と年金も充分に与えられる筈だから、生活には支障が無いだろう。
「ジャン。おはよう」
   フィリーネが大きな袋を抱えてやって来る。昨日の夜、ミリィと一緒にケーキを焼いたの――と言った。
「ありがとう。フィリーネ」
「家のことは心配しなくて大丈夫だからね。貴方は病院で確り足を治して」
「ああ。……フィリーネ」
   側にあるポットで珈琲を淹れようとしていたフィリーネに呼び掛けると、フィリーネは手を止めて此方を見た。
「話がある。座ってくれないか?」
   フィリーネは頷いて、椅子に腰を下ろす。フィリーネはそれから言った。
「私も話があるの」
「先に聞こうか?」
   するとフィリーネは頷いて、私の手を取った。
「ジャン。もうそろそろ……、退職しても良いんじゃない?」


   フィリーネの言葉に驚いて、咄嗟に返事が出来なかった。
   フィリーネはちょうど良い時期だと思うわ――と言ってから、足を見遣って続けた。
「これまで忙しく働いていたことも、義足に負担をかけたのだと思うの。それに軍は体力を使う職場だし、年齢的にもちょうど良い機会なのではないかと思って……。子供達のことなら心配要らないわ。私がまだ働けるから、仕事を探せば良いし。もうあまり無理をしないでほしいの」
「フィリーネ……」
「ただ、歩けるように回復はしてね。まずは早く治療を受けて、それからは家でのんびり暮らしても良いのではないかしら? 私はそうしてほしいの」
   きゅっとフィリーネは私の手を握る。
   知らず知らずのうちに、私はフィリーネに心配をかけていたのかもしれない。それも長年に亘って。
   フィリーネの手の上にもう片方の手を重ねる。ありがとう――まずは、彼女の思いやりに対して礼を述べた。
「私が話したかったこともそのことだ。医師は歩くことが出来るようになると言っていたが、今後激しい運動は難しくなるだろう。年齢も年齢だからな。そして、長官を辞任したとしても軍に留まっては、誰も長官を引き受けたがらなくなる。だから私はこれを機に辞職しようかと考えたんだ」
「ジャン……」
「生活のことは心配しなくても大丈夫だ。退職時には階級がひとつ上がるから、上級大将となる。そうなると、退職金も年金も生活に困ることのないぐらいの額となる」
   フィリーネは微笑んで、頷いた。
「貴方が家に毎日居てくれると、ウィリーもミリィも喜ぶわ」
「毎日一緒だと煙たがられるかもしれないぞ」
「そんなことは無いわよ」
   笑いながら言うフィリーネの身体を抱き寄せて、口付ける。

   辞職しよう――。
   その意志を固めると、何だか不思議な気分になってきた。やり残したことは無いから、満足はしている。だが、一抹の寂しさのような感情が沸き上がってくるようで――。





「辞職を……!?」
   翌日、副官のリューク中将がやって来た時に、辞職の意を伝えた。検査結果が出てからとも考えたが、長官に代理を立てる期間が長引くよりは、早々に長官を交代した方が良い。
「ブラマンテ大将には今日の夕方、私から連絡をいれる。君に頼みたいのは、人事委員会に私の意向を伝えてほしいということだ」
「ですが、閣下。足はまた動くようになると聞いています。気を急かずとも……」
「歩けるようにはなるが、激しい運動は無理だ。体力的にもな」
「私にはまだ閣下は御壮健に見えます。どうかそのような弱気なことを仰らず、定年まで長官でいらっしゃって下さい」
「リューク中将。そう言ってくれるのは嬉しいが、私も長くこの長官の座に居続けた。帝国時代の遺物に過ぎない私がな。この国が建国して10数年が経つ。それを考えても良い時期だと思ったんだ」
「閣下……」
「体力的な問題から辞職を願いたいと人事委員会に報せを。その後の手続きについても、君を通して行う。暫く手間をかけるが宜しく頼む」
   リューク中将は解りましたと言いながらも、まだ納得していない様子だった。
「私は閣下に憧れていました。戦時中の閣下のことを知っていましたから……。長官室所属となったときには嬉しくて……」
「君は戦争の折は、ザルツブルク支部に居たと言っていたな」
「ええ……。命ある限り戦えと檄を飛ばしにいらしたのかと思えば、戦わず戦後に尽力せよとの言葉で……。あの時の閣下の行動と勇気に感服して、閣下のお側で働きたい一心で昇級試験を受けたのです」
   長官室への就任時にも、彼はそう言っていた。あの頃が懐かしくも思える。
「一昨年から副官となれて、閣下ともっと仕事が出来ると思っていましたのに……」
「君は事務処理能力が長けている。私は君に何度も助けてもらったよ。君にはまだこれから次の長官の許で学び、経験を積んでほしい」
「閣下……」

   私の辞職表明には、ハインリヒも驚いた。あと5年あるではないですか――と私に詰め寄ってきた。ヘルダーリン卿や他の将官達もやって来て、辞職には早いと何度も説得された。人事委員会も同じように、辞職されては困ると委員長が病室にやって来た。
「足が治らずとも構いません。車椅子でも指揮には支障無い。……ヴァロワ長官、貴方が軍を抜けることは国益を損なうことなのです」
「一人の将官に大仰ですよ、委員長。何も私一人で陸軍を動かして来た訳ではありません。軍の総意あってこその指揮でした。今現在、陸軍に10人の大将が居ます。いずれも長官に相応しい功績を持っている。5年以上の職歴という規定を考慮すると、ブラマンテ大将が相応しいでしょう。尤もこれは私が口出しすることではありませんが」
「ヴァロワ長官……。貴方はこの国の建国に際して、多大な尽力をした」
「委員長、そろそろ新風が吹いても良い頃合いですよ」
   そう告げると、私の意志が固いことが解ったのか、委員長は黙り込んだ。


[2010.12.11]
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