「こんな話で盛り上がったのは初めてよ」
   庭園から一緒に戻りながら、彼女はそう言った。私もだ、と返すと彼女は微笑んで私を見上げる。
「気付かなかったけれど、随分背が高いわね」
「家系でね」
「ダンクシュートが軽々出来そう。やったことある?」
「学生時代には。君こそ、何かスポーツをやっていたのか?」
「テニスを少し。柔道をやってみたかったけど、危ないから駄目だって父に止められて」
   木々の間を通り抜けるとテラスが見えてくる。確かあの部屋で食事会が催される筈だった。
   ああ――。
   フリッツが待ち受けている。

「……気が重いけど、行かなきゃ。これから40歳近い小父さんとの食事会なの」
   40歳近い小父さんと食事会?
「縁談が前提よ。気乗りしないけど、相手は旧領主様だから此方から断ることは出来なくて……。きっと無駄に偉そうな中年太りの小父さんよ。だからせいぜい嫌な顔して、嫌われてくるわ。ミミズは掴まえられなかったけどね」
「……ちょっと待て。ではもしかして君は……」
   40歳近い男で旧領主家の人間。それは俺のことではないのか……?
   ではこの女性が――。
   ミクラス夫人が深窓の令嬢ではないかと言っていた女性だというのか。

   バーゼルト家の令嬢――。
   深窓の令嬢が、ひったくり犯の股間を?

「ハインリヒ様!」
   フリッツが駆け寄って、俺の名を呼ぶ。先方がお待ちです。お早くおいでください――と急かすフリッツの言葉を聞いて、彼女は眼を丸くして俺を見た。そして、フリッツが来たのと同じ方向から、黒いスーツを身につけた男が近付いて来て――。
「エミーリア様!」
   彼女の名をそう呼んだ。

   エミーリア・ララ・バーゼルト。
   あの、ひったくり犯に見事な蹴りを食らわせた女性が、まさか俺の縁談相手だったとは――。



「閣下に失礼が無かったか、不安でなりません。何分にも男勝りで落ち着きのない娘でして……」
   バーゼルト卿はあたふたと頭を何度も下げた。何もしていないわよ――とエミーリアはそんな父親に言い放つ。
「母親を早く亡くしたので、せめて娘には淑女らしい躾をと思い、ミヒェル女子学園に入学させたのですが、生来の性格は直らなかったと申しますか……。学校でも問題ばかり起こしていたとんでもない娘です。ですから、ロートリンゲン様からご縁談を持ちかけていただいた時には驚いたので御座います。……正直申しまして、このような娘では何処にも嫁に出せないと諦めておりましたので……」
   実父であるバーゼルト卿の言葉に、ミクラス夫人は驚いて眼を見開き、フリッツも言葉を失っていた。ただ一人俺は、彼女の話と父親の話の辻褄がぴたりと合っていて、面白くて、必死に笑いを堪えていた。
   エミーリアは恐縮する父親の隣に黙って座っていた。
   ああ、解った。警察から逃れたのは、きっと父親に告げ口されるのを回避しようとしてのことだ――。
「閣下。このような跳ねっ返り娘で御座います。お気に召しませんでしたら、お気がね無く御断り下さいませ」
   駄目だ――。
   必死に笑いを堪えているのに――。
   堪えきれなかった。一度笑いが漏れるともう止まらなくなって――。
「す、済まない」
「ハインリヒ様!」
   フリッツが窘めるように俺の名を呼ぶ。解っている、解っているが――。
「随分、笑ってくれるじゃない」
   エミーリアは俺を見て、膨れ面をする。エミーリア、とバーゼルト卿が注意する。何とか笑いを収めて、エミーリアを見つめる。
   こんな女性は初めてだ――。
「……で、君は私に悪戯を仕掛けるのではなかったのか?」
「そうよ。沢山、嫌な顔をして、グラスのなかにそっとミミズを入れてやろうと……」
「エミーリア! 良い加減にしなさい!」
「バーゼルト卿。良いのです」
   バーゼルト卿を制し、エミーリアを再び見遣る。するとエミーリアはふっと表情を緩めて笑った。
「怒らないのね」
「怒るどころか君との話は楽しいと思っているよ」
「……そう言われると、嫌がらせも出来なくなってしまうわ」


   食事をしながら、話を弾ませた。エミーリアの発言にバーゼルト卿は何度も注意し、恐縮した。当初は大会社の令嬢に似つかわしくないエミーリアを見て、ミクラス夫人やフリッツが呆気に取られていたが、次第に表情を緩めていった。
「フラウ・バーゼルト、それにバーゼルト卿。フリッツから話を聞いていると思いますが、私には将来を誓った恋人が居ました。正直に申し上げて、まだ忘れることが出来ません。だが今日、フラウ・バーゼルトと話してみて、私はとても楽しかった」
   フリッツが意外そうに俺を見遣る。彼に頷いてから、もう一度、エミーリアを見た。先程の彼女の言葉を少し拝借することにした。
「40歳も近いこんな小父さんだが、私と付き合ってくれないだろうか」
   エミーリアは一度眼を見開いた。その側で、バーゼルト卿が折角のお言葉だ――とエミーリアを促す。
「バーゼルト卿。この判断は彼女の意志に。私にも過去の経緯がありますし、強引に事を運ぶことは出来ません」
   バーゼルト卿は解りました、と息を吐いて口を閉じ、エミーリアを見遣った。エミーリアは凝と私を見つめていた。
「失礼を承知で申し上げます」
   エミーリアは淑女らしくまずそう言った。エミーリアの態度と対照的に、バーゼルト卿の顔が一気に青ざめる。
   失礼を承知で、ということは断るか。

「閣下の仰る恋人とは、皇女様のことと存じます。皇女様とも、私と先程話したようなことをお話になっていたのですか?」
   そんなことを問われると思わず驚いていると、バーゼルト卿がいきなり何を言い出すのだ、お前は――とエミーリアを叱りつけた。
「良いのです、バーゼルト卿。……そうだな、皇女とそんな話をしたことは無いよ。虫嫌いだったから」
   エミーリアと俺以外の面々が、一斉に奇妙な表情をしたのが解った。何を話していたのかと思ったのだろう。
「では皇女様と正反対な、虫好きな私と付き合っても良いと思ったのは何故です?」
「君のような女性とは初めて会った。興味が湧いた……では駄目か?」
「デートのたびに、悪戯が待ち受けているかもしれませんよ」
「面白そうだ。受けて立とうか」
   エミーリアはまるで、俺の固い皮を剥がすような女性だった。何もかも着飾ることなく語り合える。余計な気遣いは無用で、対等に話の出来る――そんな女性だと思った。
「……私も閣下のような方と初めてお会いしました。悪戯を面白いと言ってくれる方は今迄居なかったので」
「閣下。一言だけ口を差し挟ませて下さい。娘の悪戯は度の越したものです。どうかあまり甘やかすようなお言葉は仰いませんよう……」
「フラウ・バーゼルトは素敵な女性ですよ。バーゼルト卿」
   そうだ――。
   俺は随分と気が軽くなっているではないか。
   彼女となら、上手くやっていけると自信を持ち始めているほどに。
「お父様は心配しすぎよ」
「……これまでどれだけお前に気を揉んだか、お前には解るまい」
「無用の心配だったのよ。……閣下」
   エミーリアは再び俺を見つめた。真っ直ぐ俺の眼をまっすぐ見つめ、にこりと微笑む。
「質問にお答えいただき、ありがとうございました。皇女様と比べられても、私は皇女様のようにお淑やかではありませんし、同じものを要求されても困ります。ですが、閣下が私をお気に召して下さったのは、皇女様とはまったく違う観点からだと解りました」
   成程――。
   またひとつエミーリアのことを知った。彼女は賢い女性だ。遠回しにマリと比較しないように釘を刺したのだろう。そして同時に、俺がまったく違う関心から、彼女に興味を寄せたことにも気付いてくれた。
「閣下となら、毎日が楽しめそうです」
   彼女の言葉にミクラス夫人やフリッツが真っ先に喜んだ。バーゼルト卿は恐縮しきりで、その後も何度も頭を下げていた。


[2010.10.17]
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