食事を終えて、リビングルームに移ると、ミクラス夫人が珈琲を運んでくる。フリッツもやって来て、一礼して言った。
「先日のバーゼルト貿易会社の御令嬢との縁談についてですが、あちらから良いお返事を頂けました。まずは御当人同士、顔を合わせる場を設けるということで、月末にでも食事会を設定しようと考えております。ハインリヒ様のご都合は如何ですか?」
「私の予定は伝えてある通りだ。それをもう加味して月末にしたのだろう?」
   言い返すと、フリッツは苦笑して、それでは月末の日曜日で構いませんね――と告げる。ミクラス夫人は満足げに頷いた。
「ハインリヒ様より8歳年下のお嬢様ですよ。あまりパーティに出られる方でもないようで、どのような方か、私も存じ上げないのですが、おそらくバーゼルト様はそれほどお大事に育てられたのでしょう。確かハインリヒ様はバーゼルト様にお会いなさったことが御座いますね?」
「ああ。一度、クライスラー商社のパーティで。……温厚そうな方だったと記憶しているが……」
   フリッツが頷いてから言った。
「温厚な方ですよ。此方が縁談を持ちかけた時は、とても恐縮なさってらっしゃいました。旧領主家ではないが、当家の娘で構わないのか――と」
「もうこの国には身分は無いのだが、まだ根強く残っているのだな……」
「ハインリヒ様はそう仰られるだろうと伝えておきました。……バーゼルト様は御令嬢が御一人ですので、きっと養子を取られるのだろうとこれまでは思っていたのですが、どうもバーゼルト様はどちらでも良いとお考えのようで……」
「……令嬢一人なら後継者がいなくなってしまうのではないか……? 会社の方はどうするつもりなのだろう?」
「会長職は今の経営陣に委ねても構わないとの仰せでした。もしハインリヒ様がお嬢様をお気に召されて御結婚に至った場合には、ロートリンゲン家に経営権を譲る、と」
   随分気前の良い話だった。俺より8歳年下ということは、30歳か。バーゼルト貿易会社といえば国内でも首位に立つ大きな貿易会社だから、これまでにも令嬢には何度か縁談があったことだろう。大きな家の一人娘にしては晩婚に思える。
   尤も俺も人のことは言えないが。

「ミヒェル女子学園を御存知ですか? 御令嬢はジュニアスクールから大学部までずっと其方に在籍なさっていたそうです」
「……あの超お嬢様学校か」
   食事のマナーから社交ダンス、果てはパーティでのコミュニケーションの取り方まで教授するということで有名な学校だった。学問では言語に力を入れていると聞いている。
「そのような学校をご卒業なさったお嬢様ですから、ロートリンゲン家に嫁がれても、きちんとお役目を果たして下さると思います。ですからハインリヒ様、お食事会の後はお嬢様をきちんとエスコートなさって下さいね」
   ミクラス夫人が念を押すように告げる。解っている――と応えると、ただ、とミクラス夫人はフリッツを見て言った。
「お写真の一枚ぐらいご提示下さっても良いと思うのですがね。バーゼルト様も。どのような方か、まったく手がかりが無いなんて……」
「外見を気に掛けるなんて、ミクラス夫人らしくないな」
   俺がそう言うと、ハインリヒ様はお気になりませんか――と逆に尋ねられた。
「食事会の時に会えるのだから構わないよ。……ところで、令嬢の名前は?」
「あ、失礼しました。お伝え忘れていました。エミーリア・ララ・バーゼルト様です」
   それからご家族の系譜です、とフリッツが一枚の紙を提示する。系譜などどうでも良いことのような気がするが――。

「エミーリア様の御父君は、現在の御当主のヨハネス・バーゼルト様、ハインリヒ様もお会いになったことのある方です。エミーリア様の御母君は御幼少の頃に亡くなってらっしゃいます」
「そうなのか。……ではずっと養育係が彼女を?」
「ええ。バーゼルト様のお話によると、バーゼルト様はお仕事が忙しくあまりお屋敷にいらっしゃらなかったので、お嬢様はずっと養育係の女性を母同然に慕っていたようです。ですが、その女性も三年前に亡くなったそうで……」
   バーゼルト卿にも亡くなった母君にも兄弟は居ないから、親族も居ないのだろう。系譜を見ると、バーゼルト家には現在の当主であるバーゼルト卿と令嬢しか居ないことになる。
   もしかしたら、そのために晩婚となったのかもしれない。





   いつも通りの毎日が淡々と過ぎていく。参謀本部での仕事は相変わらず忙しかった。そんな日常のなか、日曜日が近付いて来る。
   バーゼルト家との食事会が明日に迫っていた。ミクラス夫人は明日の衣装はこれだあれだと忙しく走り回っている。フリッツは食事会の概要について、何度となく確認する。パトリックまでも口を差し挟んでくる。
「……皆が期待しているのは充分に解った。あとは当人同士の問題だろう? あまりそう騒がないでくれ」
   呆れてそう言うと、ミクラス夫人は渋面で言った。
「ハインリヒ様。もう少し関心をお寄せ下さいませ。私達が五月蠅いので、今回の食事会も義務感でお引き受けになるのだろうということは予想出来ておりますが、どうかまっさらな気持でバーゼルト家のお嬢様とお会いになって下さいませ」
「……解っている」
「そうでしょうか? 私には少々不安が残ります。……こんな前日にこのようなことを申し上げるのは気が引けますが……。ハインリヒ様、皇女マリ様はもうお亡くなりになってらっしゃいます。それなのに、ハインリヒ様はまだお忘れになれない御様子、これではこの屋敷に奥様をお迎えすることになっても、奥様がお可愛そうです。……バーゼルト家には、ハインリヒ様と皇女マリ様のことも既にお伝えしてあります。そのうえで、お嬢様をロートリンゲン家に嫁がせても良いと仰って下さっているのです。ハインリヒ様、そのことをどうかお忘れなきよう」
   ミクラス夫人の言葉はきつかった。
   俺とて解っている。もうこれ以上、マリのことを想ってはならないのだと。新たな相手を見つけなくてはならないことも。
「温厚なバーゼルト様が大切にお育てになったお嬢様です。きっとお優しいお嬢様でしょう。まず明日は、ゆっくりお話なさってみて下さい」

   俺に結婚を求めるならば――。ロートリンゲン家に後継者が欲しいのなら――。
   皆が妻として相応しいと認めるなら、俺は拒まないと以前、言ったことがある。
   その時も、ミクラス夫人は酷く怒った。相手の女性があまりに可哀想だと言って。
   俺が嫌だといえば、ミクラス夫人もフリッツも無理にこの縁談を進めようとはしない。いつでも俺の気持を優先してくれている。そのことが解っているから、ミクラス夫人の言葉が胸に痛い。


   この日の夜はなかなか寝付けなかった。結婚しなければならないことは解っていても、俺はまだマリのことを忘れられない。マリのことを忘れさせてくれるほどの女性にも出会っていない。
   ミクラス夫人の言う通り、これでは相手の女性を悲しませることになる。
   ならばいっそ、縁談を断った方が良いのだろうか――。


[2010.10.15]
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