思い出紡ぎ



   気儘に街を歩くのは、もしかしたら一年ぶりかもしれない。
   この一年、休暇の時も家の仕事が舞い込んで、休暇らしい休暇とはならなかった。今回も三日間の休暇のうち、二日間は家の仕事で、漸く今日一日、息抜きの時間を得ることが出来た。
   まずは墓参りに行った。ロートリンゲン家の墓所には両親やルディ、それにマリの墓もある。一基一基に花を供えて、祈りを捧げていった。ルディが亡くなって一年が経つのに、ルディの墓前から花が絶えることはなかった。

   マリ――。
   マリのことを忘れたことは無い。今でも愛しているということに変わりは無い。
   だが、そろそろ俺も結婚のことを考えなくてはならない。ロートリンゲン家のために。
   ミクラス夫人やフリッツがこのところ、今迄以上に結婚を促している。
『マリ様がお亡くなりになってもう5年、そろそろロートリンゲン家のことをお考え下さい』
   先日、フリッツに言われ、俺としても踏ん切りをつけなければならない時期となった。ロートリンゲン家を絶やす訳にはいかないことも解っているから、一生独身で済ませられるとは思っていない。
   もうそろそろ――、思い出を胸の奥にしまい込まなければならない。
『バーゼルト貿易会社の御令嬢が、ハインリヒ様より8歳年下とのこと。アガタの話によれば、あちらもお相手をお探しになってらっしゃるそうです。ハインリヒ様、このお話を進めて宜しいでしょうか?』
   ミクラス夫人が四方八方に出掛けて、多方面から縁談の話を持って来る。これまでにも何回か持ちかけられたが、相手の女性と顔を合わせる前に断ってきた。
『ハインリヒ様。どうか、このロートリンゲン家の後継者のことをお考えになって下さい』
   このたびはせめて相手の女性と会ってみるようにと、フリッツは勧めてきた。いつもなら面倒でそのまま逃げてしまうのだが、あまりにフリッツが懇願したため、それを了承した。
   俺自身、解っていた。もう時期が来たのだということを。



   墓参りを終えてから、街を歩いた。美術館と博物館に立ち寄りながら、ぶらりぶらりと街を歩く。書店も覗いた。眼に止まった本を買い、それから喉の渇きを潤すために、カフェに入った。
   二階席の見晴らしの良い席に座り、珈琲を注文する。買ってきた本をざっと斜め読みする。それから視線を店の外に送った。賑やかな街の様子が一望出来る。
   紙袋を抱えながら歩く老女、買い物に興じる女性達、ラフな格好で話をしながら歩く学生達、楽しそうに歩きながら語り合う恋人らしき男女の姿――、街は活気に溢れていた。思えば、ルディはよく言っていたものだ。街の様子をみれば、その国のことが見えてくる――と。
   香りの良い珈琲を口に運んだ時、女性の悲鳴が聞こえてきた。何かあったのだろうか――再び外の光景に眼を遣ると、泥棒、という女性の声が聞こえてくる。走り去る男の姿が見えた。
   見たからには放ってもおけず、席を立ち上がろうとしたその時。
   走り去る男の前に立ちはだかった――女性が居た。その鞄は貴方のものではないでしょう――と彼女は言う。男は構わず、女性を払いのけようと腕を前に出した。
「危ない!」
   思わず外に向かってそう告げた。
   しかし女性は鮮やかに男の腕から身を交わし、これまた鮮やかに男の足を薙ぎ払った。見事にその場に転んだ男の手から鞄を奪い取る。男はその彼女の細い足を掴んだ。
「放しなさい」
   女性は毅然と言い放つ。
   その凜とした様のこと――。

   男はぎろりと睨みつける。胸元から柄のようなものを取り出した。ナイフだ――。
   これはまずい。
   席を立ち、店を出て、群衆のなかを割り込む。ナイフを振り回す男を、女性は巧みに避けていた。それに対し、周囲の人々は慌てふためき逃げ回るばかりで、彼女を助けようともしない。
「警察を呼べ!」
   人々にそう促してから、ナイフを振り翳す男の腕を掴む。腕をねじり上げて押さえつけようとしたその時――。
   彼女の足が持ち上がった。
   垂直に伸びてきて、男を蹴りつける。
   それも――、股間に。

   男は悶絶の表情を浮かべて、俺が押さえつける必要も無く、その場に蹲った。
「……お見事」
   思わずそう言うと、彼女は私を見て、満足げに笑み、確りその腕を掴まえておいて――と言った。そして落ちていた鞄を拾い上げると、側に居た女性にどうぞと手渡す。その女性はありがとうございます――と彼女に礼を言った。おそらく鞄を盗まれた女性なのだろう。
「鞄は道の外側に向けて持っては駄目よ」
   彼女はそう告げると、すたすたと歩き始める。
   待て。これから警察官が来るというのに聴取に協力しないつもりなのだろうか。
「君、少し待ってくれ」
   俺が声をかけても、彼女は振り返りもせず足早に歩き去っていく。
   結局、警察官の聴取は鞄を盗まれた女性と、俺が聴取に協力することとなった。
   それにしても先程の女性、勇敢というか、無謀というか、滅茶苦茶というか――。
   あんな女性は初めて見た。





「まあ。それではその女性はさっさとその場から逃げてしまったのですか?」
   食事を勧めていると、ミクラス夫人が今日は何処に行って来たのか問い掛けてきたので、墓参りに行った後、街をぶらついていたことを話した。その途中で勇猛な女性に出会ったことを話すと、ミクラス夫人は呆れながらそう言った。
「逃げる……というより、歩き去っていったというのかな。おかげで警察の聴取に立ち合ってきた」
「強い女性も居るものですねえ……。犯人もナイフを持っていたのでしょう?」
「まったく恐れていなかった。あんな女性も珍しいな。それに……、護身術を心得ているような動き方だった。もしかしたら婦警か何かだったのかな」
「婦警さんだとしたら、警察に協力するでしょう。警察と言われて逃げ去っていったということは、何か後ろめたいことがあるのかもしれませんよ」
   ミクラス夫人はそう言いながら、肉を切り分けて、皿に取る。ソースをかけて俺の前に差し出してくれる。それからミクラス夫人は笑みを浮かべて言った。
「ハインリヒ様。私からもお話があるのですが、お食事を終えてからにしますね」
「……ミクラス夫人がそう言う時は、決まって結婚の話だな」
「後程、フリッツと共にお話を」
「……解った」
   きっと先日言っていた話だろう。貿易会社の会長令嬢との。
   覚悟は決めているのだし、年齢的にももう我が儘は言っていられない。


[2010.10.13]
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