今日は書店に足を運んでみた。
   大通りから一歩入ったところに大きな書店がある。其処で、子供達の教材用の本を探すことにした。一冊一冊を手に取りながらじっくりと吟味し、そのうちの何冊かを選んでから、今度は自分用の本を選ぶ。ビザンツ王国で発刊された史跡に関する本を探してみることにした。確かかなり厚みのある本だったから、一目で解ると思うが――。
   ああ、あそこにある――。

   目的の本が並ぶ書棚の前にやって来た時、思わず声を上げそうになった。驚いた。
   あの時の女性が居た――。

「失礼ですが……」
   声をかけると、女性は顔を上げた。彼女も驚いた顔をした。
「あの時はどうもありがとうございました」
   彼女は笑みを浮かべて、いいえ、と応える。
「応急処置だけでしたから……。もうお加減は宜しいのですか?」
「ええ。お陰様で回復しています。実はずっと貴方のことが気になっていて、名前を伺わなかったことを後悔していました」
「私もまさか宰相閣下だったとは思わず……、何か失礼が無かったかと……」
   私のことは、後から気付いたのだと彼女は言った。
   あの時は具合が悪くてよく見ていなかったが、綺麗な女性だった。私より若いだろう。背筋をぴんと伸ばし、凛と見えるのに、優しげな眼差しが柔和な印象を与える。
「てきぱきと処置して下さいましたが、もしかして医療に従事なさって……」
   話していたところへ、小太りの女性が此方をじろりと睨んで、退いてくれますかね、と告げる。狭い通路だったことを失念していた。すみません――と詫びてから、彼女に告げる。
「もしお時間が許せば、少しお話したいのですが……」
「解りました。入口でお待ち下さい。すぐ参ります」
   彼女はそう言うと、側に置いてあった本を持って会計に向かった。考えてみれば、私も会計を済ませなければならない。結局、私の方が彼女を待たせてしまう形となった。



「ユリア・フォン・メレンドルフと申します。閣下のお察し通り、医師として病院に勤務しております」
   彼女をカフェに誘い出した。こんな風に女性を誘うのは、久しぶりのことだった。
   そして、彼女の名前を聞いて、縁めいたものを感じずにはいられなかった。亡き母と同じ名前とは。
   それにフォン・メレンドルフと言った。フォン・メレンドルフは確か旧領主家だった筈――。
「旧領主家のフォン・メレンドルフ家とは関係が?」
「その家の出身ですが、旧領主家としてはもう祖父の代で没落しています。今は名前が残っているだけですよ」
   確かに――。
   もう30年程前に没落したとされている。大きな家だったが、当主が不正取引を行ったことで領地全てが国に没収されたのではなかったか。
「では……、御苦労されたでしょう」
「祖父は浪費しか知らない人でしたが、父が懸命に働いて私を大学に行かせてくれたんです。諦めようと何度も思いましたが、そのたびに夢を諦めては駄目だって」
「立派な父君だ。夢を叶えて、お喜びになったことでしょう」
「ええ。父も母も喜んでくれました。祖父には旧領主家の娘が医師などになって、と叱られましたが」

   思いの外、彼女と会話が弾んだ。
   彼女は第2病院に勤務する医師で内科を担当しているのだという。自宅から病院が遠いため、病院近くのアパートで一人暮らしをしているらしい。
「閣下は御引退なさってから、隠居生活をなさっていると報じられていましたが……」
「もう閣下と呼ばれる身分ではないのですよ、フラウ・メレンドルフ。私は郊外の山奥に住んでいるのですが、この夏に体調を崩してしまったので、治療のために本邸に戻っているのです。もう大分良くなったので、また山奥に引きこもりますが……」
「そうでしたか……。お身体が丈夫ではないと伺っております。今年の夏は異常な暑さだったので、体調を崩してしまわれたのでしょう」
   少し話をするつもりが、いつのまにか二時間も話し続けてしまった。
   そしてまた会いたいと思った。彼女と話していると楽しい。
「もし……、ご迷惑でなければ、連絡先を尋ねても良いですか?」
   これで拒まれれば、彼女のことは忘れてしまおうと思ったが、彼女は快く連絡先を教えてくれた。



「……運命的な出会いではないのか?」
   その夜、帰宅したロイに彼女と出会ったことを告げると、ロイは柄にも無くそんなことを言った。
「それは解らないが……。雰囲気の良い女性だった。ロイ、ミクラス夫人達にはまだ黙っておいてくれ。騒いで面倒なことになるから」
「解った。……しかし母上と同じ名前とは面白いな」
「ああ。名前を聞いたときには驚いた」
「……名前の偶然、それに旧領主家か……。ミクラス夫人に話したら、素早く結婚に持って行かれそうだな」
「だから黙っておいてくれ。まだ付き合うとかそういう段階にまで至っていないのだからな」
   ロイは苦笑して頷く。良い方向に話が進むことを祈っているよ――とロイは言った。


   そしてロイの祈りが通じたのか、私とフラウ・メレンドルフは何度かカフェで会い、話をするうちにさらに打ち解け、本格的な付き合いを始めるようになった。
   私は彼女のことをユリアと呼び、彼女は私のことをルディと呼んだ。暫くは家の者に内密で付き合っていたが――。


[2010.9.6]
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