アイ



   こんなに気温が上がるとは――。

   暑さのせいで息苦しさを感じる。迎えに来て欲しいとケスラーに連絡をいれたが、此処に到着するまでまだ時間がかかるだろう。もう少し早く連絡をいれるべきだったか。
   美術館のロビーに居ると伝えたから、此処まで来てくれるだろうが――。

   駄目だ――。
   立っていられない。眩暈がしてきた。

   ゆっくりと辺りを見渡して椅子の位置を探る。フロアの真ん中に椅子が置いてあるが、子供達が独占していて座ることが出来そうに無い。
   そっと柱に身体を凭れさせた。

   今日、こんなに気温が上がるとは思わなかった。もうすぐ10月だというのに、真夏の太陽が大地を照りつけている。
   やっと回復したと思っていたのに――。

   夏の始めに体調を崩して、本邸へと戻った。だが、なかなか回復しないままに夏が過ぎていった。ここ数日になって漸く涼しくなってきたので、少しずつ外を出歩くように心掛けていた。
   だが――。


「大丈夫ですか?」
   不意に側から声をかけられて顔を上げる。若い女性だった。私の顔を覗き込み、酷い顔色ですよ――と告げる。
「……少し具合が悪くて……。ですが、すぐに迎えが来ますから……」
   美術館の館員かと思ったが、名札が無い。彼女はさっと私の背を支え、椅子のある場所までゆっくり歩くよう促した。
   しかし其処は子供達が独占している場所で――。
「貴方たち。其処は遊び場ではないのよ。具合が悪い人が居るから、席を空けて頂戴」
   彼女ははっきりと子供達に言い放った。子供達は慌ててその場から立ち去っていく。
「座って少し胸元を緩めて下さい。今、タオルを濡らしてきます」
   私を椅子に座らせると、彼女は此方の返事も待たず、足早に休憩室に向かって行く。胸元のボタンを解き、少し眼を閉じる。

   それでも息苦しい。このフロアに居る子供達の声が、強弱を伴って聞こえて来る。
   あと十分程でケスラーが来てくれる筈だ――。
   あと少し――。

   その時、頭にひやりと冷たい感触がした。眼を開けると、先程の女性が私の前に屈んでいた。
「首の後ろ、失礼しますね」
   彼女はそう言うと、冷たいタオルを私の首の後ろに置いた。そして私の手を取り、時計を見ながら脈を測る。
「……横になった方が良さそうですね。案内所で聞いてきます」
「あ、いや……。もうじき、迎えが来るから大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
「息切れも酷いようですし、御帰りになるより、このまま病院に行かれた方が良いかと思います。救急車を呼びましょうか?」
   大丈夫――と答えかけた時、フェルディナント様、と私を呼ぶ声が聞こえた。ケスラーが来てくれたようだった。
「迎えが来たようです。ありがとうございました」
   私の状態に気付いて、ケスラーは慌てて側に駆け寄った。立てますか――と私に問い掛ける。身体を支えてもらいながら立ち上がる。
「面倒をかけました。差し支え無ければ、貴方の御名前と連絡先を……」
   後程、今日の礼でもと思っていたのに、彼女は大したことはしていませんから、と言って名乗らなかった。



「……それでまた具合を悪くしたと」
   帰宅してすぐにトーレス医師に来て貰い、診察を受けた。急な気温の上昇が体温を引き上げ、体調を悪化させたのだろうと言われた。あの女性が言っていた通りだった。
   帰宅してからずっと横になり、陽が暮れかけた時、ロイが帰宅した。ロイは私の部屋にやって来て、半ば呆れながらそう言った。
「これは当分、此方に滞在だな」
「もう二ヶ月も休んでいる。子供達も待っているから、週末には戻るつもりだ」
「その状態で戻っても、また此方に戻って来ることになるだろう。……それに今年の暑さは異常だから、冬になるまで此方に居たらどうだ?」
「だが……」
「焦ることもないだろう。それに子供達の勉強が気になるなら、子供達を此方に連れて来れば良い。ケスラーに送迎を頼めば良いだろう」
   ロイはそう言って、私の額に乗せられたタオルを取り替える。熱がなかなか下がらなかった。
「兎に角、今は安静が一番だ。ところで、美術館で倒れたんだって?」
「倒れてはいないが……。急に具合が悪くなってな。館内を動きすぎたのも原因のひとつだろうが……」
「図書館から美術館まで歩いて行ったのだろう? そのせいではないのか?」
   おそらくそうなのだと思う。図書館で用を済ませてから、歩いて五分の美術館に向かったが、それから具合が悪くなった。外で歩いたのは五分だったが、あまりに暑かったせいだろう。
「……ロビーでケスラーを待っている間、世話をしてくれた女性が居た」
「美術館の館員か?」
「いや……。名札を着用していなかったから違うだろう。それにてきぱきと処置をしてくれたから……。もしかしたら医師か看護師だったのかもしれない」
「ちょうど良かったな。世話をしてもらっていなければ倒れていたのではないか?」
   その可能性は否定出来ない。ロイに言い返す言葉を失っていると、ロイは笑って、何と言う女性だと尋ねて来た。
「それが、名乗ってくれなかったんだ。まあ、私も名乗っていないのだが……」
「お前の顔はメディアに映っていたから誰もが知っているだろう。まあしかし、名乗っていないのなら礼の言いようも無いな」
   ロイの言う通りではあったが、気にかかった。あれだけ対処が早いということは、医療関係者には違いない。名前さえ解れば、トーレス医師に尋ねるということも出来たが、肝心の名前さえ解らない。


   結局、私はもう暫く本邸に滞在することになった。具合の良い日だけ、此方で子供達の勉強を見ることにして、送迎はケスラーに頼むこととなった。
   やがて暑い9月も過ぎ、10月となった。美術館で具合を悪くしてからというもの、この日は体調も良ければ気温もちょうど良かったので、そろそろ外に出てみることにした。


[2010.9.4]
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