レオンは私を見て、この場で下ろすよう告げた。此処からどうやって共和国に戻るつもりだ――と問うと、どうとでもなると笑みを浮かべて応える。
「追っ手もかかる。お前はこの国の地理に明るくないから危険すぎる」
「だがこのまま俺と行けば、君は酷い目に遭う。俺を逃したことでさえ重罪になる筈だ。これ以上、皇帝の不興を買ってはいけない」
「私のことなら気にするな。覚悟は出来ている」
「君一人の身ではないだろう」
「周囲には出来るだけ迷惑を掛けないよう細工は施してきた。そのことをお前が案じる必要は無い」
   そういえば、先程、携帯電話が何度か鳴っていた。おそらくフリッツかミクラス夫人だろう。ケスラーから話を聞いて、此方に連絡を寄越したに違いない。
「アンカラまで送り届けることは無理だが、せめて帝国の国境を越えてマスカットまで私が送り届ける。……共和国への償いのために、せめてそれぐらいさせてくれ」
「ルディ……」
「この国の宰相として何も出来なかった。それが何よりも……情けない」
   その時、車が緩やかにブレーキをかけ始めた。オートモードだから、障害物や人がいれば自動的に停車する。前方を見ると、人が一人立っていた。

   ヴァロワ卿だった。
   既に宮殿には私の行動が知れ渡ったのだろう。それともオスヴァルトがヴァロワ卿に連絡をいれたのだろうか。それにしても私がこの道を通るとよく解ったものだ。
   車から降りると、ヴァロワ卿は厳しい顔つきで私を見つめた。
「ヴァロワ卿……」
「……誰にも私が此処に来ることは言っていないから安心しろ」
「……ありがとうございます」
「宰相が収容所から勝手に捕虜を連れ出した、と宮殿内で騒ぎになっている。宰相、今のうちに宮殿に戻れ。宰相としての職は追われるが、今ならばそれ以上の責めは回避出来る。私が口添えする。さもなくば、ロートリンゲン家までも巻き添えになるぞ」
   ヴァロワ卿の言葉を聞いて、レオンが私を見、宮殿に戻るよう告げた。此処まで連れてきてくれただけで充分だ――と言う。
   私は首を横に振った。
「ロートリンゲン家に嫌疑がかからないよう、宮殿からそのまま収容所へ向かいました。フリッツもパトリックも皆、何も知りません。それに、ロートリンゲン家が取り潰されることはありません。帝国アカデミー他、教育文化部門へのロートリンゲン家からの出資を増額してあります。ロートリンゲン家が潰されるようなことになれば、其方も同時に潰れる――そのように、出資を操作しておきました」
   ヴァロワ卿は眼を見開き、額に手を遣った。前もって計画してあったのだな――と呆れた様子で呟いた。
「銀行口座も凍結されるでしょうが、皆が困らないほどの額を邸に置いてあります。ロートリンゲン家は大丈夫です。今回の行動については、私一人が責任を取れば良いこと」
「……覚悟は出来ているということか」
「はい」
「此処で私と戦うことになってもか?」
「……はい」
   ヴァロワ卿はひとつ息を吐き、解ったと呟いた。ポケットに手を忍ばせて何かを取り出す。
「弾丸ぐらい持っていけ。あと私の拳銃も」
「いいえ。それではヴァロワ卿に嫌疑がかかります。それに弾丸と剣は持ち合わせています。大丈夫です」
「……本当に周到に用意していたのだな」
「陛下が意見を変えるかもしれないことは予想出来ていましたから……」
   ヴァロワ卿のポケットから音が鳴り響く。携帯電話のようだった。ポケットからそれを取り出し、表示を見て、ヴァロワ卿は言った。
「ならば早く行け。そして共和国に亡命をしろ。帝国に戻って来ては駄目だ」
「ヴァロワ卿……」

   亡命をしろ――そんなことを言われるとは思わなかった。ヴァロワ卿は私を引きずってでも宮殿に戻そうとするかもしれない、そう思っていたが――。

   ヴァロワ卿は半歩前に出て、私の肩を掴んだ。
「これだけは約束してくれ。宰相……いや、フェルディナント。どのような状況になっても必ず生き抜くと」
   強い口調で、ヴァロワ卿は言った。
   生きろ――と念を押すようにもう一度言う。
   ヴァロワ卿からフェルディナントと名を呼ばれたのも久しぶりのことだ。宰相になってからは、一度もそう呼んでいなかったのに。
「解りました。ありがとうございます。ヴァロワ卿」
「アンドリオティス大将。宰相ならば、貴方を無事、貴国に送り届けるだろう。それから先のことはお頼みする」
   レオンはヴァロワ卿の言葉を受けて、解りましたと強く応える。
   早く行け、とヴァロワ卿は促した。車に乗り込んで、すぐに発進する。ヴァロワ卿は最後に、私に向けて敬礼した。

「……帝国軍務省陸軍部長官ジャン・ヴァロワ大将。国際的にも評価の高い人物だと聞いていたが、君とは仲が良いようだな」
「私は元々外交官だった。外交官になった当初、国際会議に共に参加したことがきっかけで親しくなった。その頃ヴァロワ卿はロイとも……、弟とも知り合っていたから、自然と付き合いが深くなっていった」
   ルームミラーで後ろを見遣ったが、もうヴァロワ卿の姿は見えなくなっていた。今回のことを謝り忘れていた。身勝手な行動を取って申し訳無かった――と。
「君の弟……、ハインリヒ・ロイ・ロートリンゲン大将はいつのまにか公式文書から名前が消えたが……」
   不意にロイのことを問われて、顔を上げた。聞かない方が良いか、と尋ねるロイにいや、と首を横に振る。
「もう半年前になるが、弟は帝国を追放された。ビザンツ王国に入ったことまでは終えたが、その後の足取りが追えず、今も行方知れずだ。……あの頃から全てが狂い出した」
「聞いても良いかな。何故、追放に?武勲名高い優秀な人材と聞いていたが……」

   ロイの追放のことは国外には知られていない。そればかりか、国内でさえ真相を知っているのは、軍務省に所属する一部の人間だけで、海軍部長官の突然の交替には、宰相室にも国内外から問い合わせが来たほど、内密に処理されたことだった。

「弟は第三皇女のマリ様と懇意にしていた。恋人同士だった。当初は二人の関係を皇帝にも隠していたが、それを皇妃に知られ、皇帝にも知られることとなった」
「それで追放に……?」
「いや、その時は婚約を許された。マリ様とロイは婚約の準備まで進んでいた。……それが第一皇女フアナ様と第二皇女エリザベート様が急逝なさり、皇帝にとっては事情が変わった。二人の皇女が亡くなったことで、皇位継承者はマリ様に移って……。元々、フアナ様は第一皇位継承者とはいえ虚弱だったから、皇帝はエリザベート様が皇位を継承すると考えていた。だから、マリ様にはそうした教育を一切施してこなかった。それで、政治に明るい人間が結婚相手に相応しいということになり、弟よりも宰相である私の方が相応しいということになって、弟との婚約は解消された」
「……何だ。その勝手な理由は」
「レオンが言っていた通りだと、私はその時初めて痛感した。君主制では皇帝の命令は絶対で、逆らうことは出来ない。……それに私自身も権力を欲したことは事実だ」
「ルディ……」
「あの時、私が宰相を辞することになっても、ロイに味方してやれば良かったのだと、酷く後悔した。ロイはこの帝国と私に愛想を尽かし、マリ様を連れて共和国に亡命しようとした。だが、途中で捕まって追放に処せられた」
   そうだったのか――と、レオンは静かに言った。
   思えば、今回のこの事態は自業自得なのだろう。そして私はきっと宰相の器ではなかった。

   車は山道を進む。先程から携帯が何度か鳴っていた。ポケットからそれを取り出して画面を見る。フリッツからだった。心配しているのだろう。私が電話に出たら、こうして逃亡中の私と連絡を取ったということで、ロートリンゲン家に疑惑がかかることになる。もう電源を切っておくことにした。

   辺りを警戒しながら先を急ぐ。どうやら追っ手はまだ来ていない。おそらくヴァロワ卿が上手く操作してくれているのだろう。
   薄暗がりのなか、一軒の店が見えた。燃料の補給はまだ大丈夫だ。しかし食糧品を全く用意していない。これから山道も多く、店も少なくなる。それに、憲兵達の捜査網も拡大されるだろう。今のうちに必要な物を買っておいたほうが良さそうだ。
「食糧品を買っておこう。まだ捜査はこの辺りにまで及んでいないようだから、車を降りても大丈夫だろう」


[2010.1.31]