第8章 宿願のために



   時計の針が午後2時を指す。静まりかえったこの部屋では、時計を見ない限り、時間の感覚を忘れてしまいそうになる。
   しかしそうはいっても、外部からの情報が一切遮断されていることを除けば、手足を拘束されている訳でもない。食事も一日三回、きちんと提供される。それもおよそ収容所の食事とは思えない内容で、此処に来て初めて食事を出された時には驚いた。
   尤も自分が捕虜となっていることを痛感するものがある。
   右腕には、起爆装置がはめられていた。腕時計のように軽い物で、俺が脱走さえしなければ作動しないと言っていたが、特殊なロックがかかっていて勝手に外すことは出来ない。無理に外そうとすれば、それもまた起爆するのだろう。

   此処から逃げ出そうとすれば、起爆装置も作動するだろうし、何よりも国に不利益を生じかねない。一室に閉じ込められて少々息が詰まるが、この部屋は決して狭い部屋ではなかった。部屋の奥側には、洗面所と浴室もある。
   だが、四面が真っ白い壁で覆われていて、扉に小さなガラス窓が取り付けられている以外には窓は何処にも無い。

   帝国に来て、護送車でこの収容所に運ばれてきた。到着してから、戦闘の際に負った傷の手当とメディカルチェックを受けた。それからはずっとこの部屋だった。収容所に来たその日に、名と経歴について問われた以外は、尋問も無い。
   此処から一歩も外に出ることは出来ないが、それでも手酷い扱いではない。此処に連れて来られる前も、ヴァロワ大将が下士官達に対して、俺を丁重に扱うようにと何度も繰り返して言っていた。そのためだろうか。
   毎日、この部屋に置いてある本を読んで過ごした。それでも本の内容は殆ど頭の中に入って来なかった。字面を追いながら、ルディのことを考えてしまうことが度々ある。

   ルディ――この帝国の宰相はどのような人物なのだろうか、と。
   もう一度会って話をしてみたいとも思う。マルセイユで会った時の彼が、本当の彼の姿であるならば、今回の戦争は彼が望んで行ったものでは無いことになる。俺はそう信じたかった。きっと彼は皇帝によって権限を阻まれているのだろう、と。そのために、彼は自分の望むような政策を取れないでいるのではないか。一度宰相と会ったことがあるムラト大将も、彼を高く評価していた。
   だが、そうだとしたら、皇位継承の問題はどう考えれば良いのか。皇帝は何故彼を重用し、皇位までも移譲しようとしているのか。ロートリンゲン家と皇帝の間には何か事情があるのか。
   どうしてもその点が解らない。


   カツンカツンと足音が聞こえて来る。見回りだろうか。この時間の見回りは珍しいが――。
   カチリと鍵を開ける音が響いた。ついに尋問が始まるのだろうか。
   開いていた本を閉じる。扉がゆっくりと開く。


   俺は眼を見開いた。食い入るように、扉の前に立つ人物を見つめた。
   フェルディナント・ルディ・ロートリンゲン、彼が扉の前に立っていた。

「……済まなかった」
   彼は開口一番にそう言った。
   それだけ言うために此処まで来たのだろうか。それとも俺から何か話を聞き出そうとするため、此処に来たのだろうか。
   彼は――、ルディは此方に歩み寄り、右腕を、と告げた。訳が解らずルディを見返すと、ルディは起爆装置に眼を遣って、それを外す、と短く言った。
「……それはどういう意味だ。私は晴れて此処から出られる、と?」
   皮肉な言い方だと思った。意図せずともどうしてもそんな物言いになってしまう。ルディは申し訳無さそうな面持ちで、少し違うと応えた。
「私の独断でお前を此処から出す。詳しいことは後で話すから、兎も角、それを外させてくれ」
   右腕を前に出すと、ルディは起爆装置の一部に小さなチップを其処に挿し込んだ。ピッと軽やかな音が聞こえて、起爆装置の留め金部分が簡単に外れる。ルディはそれを側にあった机の上に置いて、怪我は無いかと問い掛けた。
「説明が欲しい。何故、君がこれを外したのか。独断で私を此処から出すとはどういうことだ?」
「後で話す。今は何も聞かず、私に付いてきてくれ。時間が無い」
   ルディは自分の腕時計をちらと見遣って俺を促す。何がどうなっているのか、さっぱり解らなかった。だが此処から出られるというのなら、それに越したことは無い。


   扉の外に出て、ルディの後を付いていく。階段を駆け下りる。その途中で彼は立ち止まった。俺を見、唇に指を添える。人の足音が下から聞こえて来る。その足音から察して、三人のようだった。ルディはそろりそろりと階段を数段降りる。下からの足音が近付いて来る。カツカツカツと階段を三段上る音が聞こえた時、ルディは階段を勢いよく駆け下りた。閣下、と下から声が聞こえるのと、鈍い音が聞こえるのとがほぼ同時だった。
   驚いて階下に向かうと、其処には三人の軍人が蹲っていた。行こう、とルディは先を促す。
「待て。何故このような……」
「今は兎に角この収容所を出たい。そうでなければ、私のIDが凍結される」
   どういうことだ――と問い掛けようとして止めた。今は此処を出ることが先だと言っていた。此処を出たら、少しは事情を聞かせてもらえるだろう。

   収容所の二階まで下りてくると、ルディはそのまま一階に下りるのではなく、奥へと向かった。幸いにして軍人の姿は無い。しかし一階の出口には衛兵が居るに違いないが、どうやって外に出るつもりなのだろう――そう思っていたら、ルディは一番突き当たりにある窓を開けた。どうやら此処から飛び降りるつもりらしい。
「此処から降りたらあの出口に向かって走ってくれ。鍵は持っている。そしてこの収容所を出たら右の角を曲がる。其処に白い車が置いてある」
「……解った」
   そう応えると、ルディは頷いて、まず先に窓から飛び降りた。その飛び降り方の鮮やかなこと。身軽にひらりと降り立って、此方を見遣る。続いて俺が降りた。その間、ルディは拳銃を手に辺りを警戒していた。先に俺を出口に向かわせ、周囲を警戒しながら背後を走る。
   ルディは扉の脇にある柱の一部を開けて、いくつかの番号を入力した。胸元からカードを取り出し、それを挿し込む。ガチャンと音を立てて鍵が解除される。ルディは扉を開けた。左右を見渡しながら走る。右の角を曲がったところには、確かに白い車があった。ルディが運転席に乗り込む。助手席に乗り込むや否や、車は発進する。ミラーで何度か確認したが、どうやら追って来る者は居ないようだった。そのまま2、3キロ走った。

「……私は捕虜の……お前の身柄を交換条件に、シーラーズ以南の地域を割譲するよう共和国側に交渉を持ちかけた。今朝、ムラト次官から連絡が入り、その要件を飲む旨が伝えられ、来週の月曜日にはお前は解放される筈だった」
   ハンドルを操作しながら、前方から眼を放さずにルディは話し始めた。
「だが、それが陛下の……皇帝の一言によって覆された。戦争は継続し、共和国全土を掌握する――、軍務省の守旧派の意見を皇帝は承諾した。そのため交渉は今日の午後に、打ち切られた。交渉が打ち切りになるということは、お前の捕虜としての価値が無くなるということ――、最悪の場合、死刑に処せられることになる」
「それで私を連れ出したと?」
「……私にはもうそれしか方法が無かった。宰相という立場にあっても、皇帝の意志を変えることは出来ない。戦争をしてはならないと皇帝に訴えれば、私を外した場で開戦が決められる。……宰相など名ばかり、皇帝の操り人形と同じだ」
   今、俺の隣でハンドルを操作している人間は、やはり俺の考えた通りの人物だったということか。
   今の話が彼にとって都合の良い作り話だとは思わない。それならば、このように危険を冒してまで俺を逃がそうとする筈が無い。

「……エスファハーンで君の姿を見た時は本当に驚いた。俺は君が宰相だとは考えていなかった」
「私も同じだ。マルセイユで会ったレオンが、まさか共和国の軍部長官だとは思わなかった。……皮肉なものだ」
「そうだな」
「だが同時に感謝している。交渉にしても、こんな卑劣なやり方では駄目だと気付かされた。捕らえたのがお前だったから、私は間違いに気付いた」
   ルディは言いながら、角を曲がった。人通りの少ない道に進む。車の中央にあるモニターが現在地を映し出した。ルディはそれを指で操作して、広域図を表示させる。暫く画面を見つめた後、しなやかな指先で操作して、ルートを作り出す。それから車を自動運転に変えた。
「此処から君を共和国へ送り届ける。車では四日程かかるだろうが……」
「……ルディ。此処で下ろしてくれ」


[2010.1.30]