「ルディ。顔色が悪いんじゃないか?」
 自宅から宮殿まではそう遠い距離ではないから、何か急用でもなければ徒歩で行く。またロイと一緒に出勤することもいつものことだった。
 ロイは私の顔を見つめて言った。確かに調子は悪く、ミクラス夫人からも顔色の悪いことを指摘されたが、大丈夫だと押し切って邸を出た。今週に入って体調が芳しくなかったが、今日は昨日にもまして体調が悪かった。激しい頭痛と今にも嘔吐してしまいそうな気持ち悪さ――、こんなに具合が悪いこともここ数年無かったことだった。
「疲れが出ているのだろう。来週は少し休みを貰うことにする」
「……まだ週の半ばにも達していないではないか。休まなくて大丈夫か?」
「ああ」
「宰相殿が倒れたとなると執政にも影響する。今やこの国を実質的に動かしているのはお前だといっても過言ではあるまいに」
「不敬極まりない発言だぞ、ロイ」
「お前と俺、内輪だけの話だ。大事な身なのだから、無理はするなということだ。今日は早めに帰宅して、ゆっくりと休めよ」

 執務室では、オスヴァルトが法案修正の準備を調えていたところだった。この処理だけは今日中に済ませてしまいたい。そしてロイの言う通り、今日は早く帰ろうと思った。具合は最悪で、手洗いで何度も嘔吐し、時間が経つごとに座っていることさえも辛くなってきた。それでも調整した修正案を皇帝の許に提出し、許可を貰って、内務省に提出するまでは帰りたくなかった。
「閣下。お顔の色も優れない御様子です。具合が悪いのでしたら、お休み下さい」
 片手で痛む頭を抑えながら最後の調整をしていると、オスヴァルトは心配そうにそう言って、水を持ってきた。礼を述べてコップを受け取った手は頭痛のせいだろう、小刻みに震えていた。
「やはりお休み下さい。残りの作業は指示していただければ私が務めます」
「あとこの二ページの確認を終えたら、皇帝に提出して許可を得るだけだ。済まないが今日はこの処理を終えたら帰宅させてもらう」
 オスヴァルトは気の良い男だった。宰相には副宰相を任命する権限が与えられる。副宰相といっても、宰相が健在の限り、その職務内容は秘書官と殆ど変わりない。ただ宰相が不在の時には、宰相代理としての権限が与えられる。宰相となった時の最初の仕事が副宰相の任命だった。私が若輩だから、年長者を副宰相に据えることも考えたが、守旧派ばかりで適任者が居なかった。宰相たるに相応しい能力を有した人間で、且つ私と同じような考えを持っている人間が良い。人選に迷った挙げ句、ひとつ年下ではあったが、当時内務省に務めていたオスヴァルト・ブラウナーを指名した。オスヴァルトは議会を内務省から切り離した方が良いという帝国内にあっては進歩的な考え方の人間で、私とよく似た思想を持っていた。元は開発省に務めていたが、次官補と口論をし、一度は開発長官から職を解かれたという異例の経歴を持つ男でもある。有能な男だが、自分の哲学を押し通すという意味では頑固な男だった。
「さて、では皇帝にこれを提出してくる」
 処理を終えた書類を携えて皇帝の許に行く。宰相という身分にあるため、日に一度は皇帝の許に行かなければならなかった。皇帝は書類を一読するとすぐに許可をくれた。これで災害地への納税の猶予が認められることになる。
「ところでフェルディナント。顔色が悪いぞ」
「申し訳ございません。少々体調が優れないので、今日はこの処理を終えたら帰宅させていただくつもりでした」
「そうした方が良い。お前はフアナと同じで先天的虚弱だ。無理をしてはならん」
「ありがたき御言葉、感謝致します」
「あの病も完治する術があれば良いのだが……」
 皇帝が言葉を止めたところへ、扉を叩く音が聞こえた。返事をするより早く扉が開く。皇女マリだった。
「お話の最中だったようですね。失礼しました」
 皇女マリは申し訳無さそうに言いながら、歩み寄る。皇帝は眼を細めて皇女を見た。
 皇帝は三人の娘達を溺愛していた。皇妃カトリーヌとの間になかなか子供が出来ず、皇帝が40歳となった時に漸く待望の第一子が誕生した。その時の皇帝の喜びようといったら無かった、と今は亡き父が言っていた。第一皇女が誕生して二年後に第二皇女が、さらにその三年後に第三皇女が誕生した。皇帝の許に男子は誕生しなかったが、皇帝は三人の娘を非常に可愛がっていた。
「ちょうど話が終わったところだ。どうかしたのか、マリ」
 皇女マリは外出許可が欲しいのだと皇帝に告げた。皇帝は困った様子で外出を強請る娘を見つめる。街に出ると誘拐の危険もある、そう渋っても皇女マリは引き下がらなかった。
「どなたかに護衛を頼みます」
 その時、ちらと皇女マリは此方を見た。それで全てを察することが出来た。彼女はロイと共に街に行きたいのだろう。もしかすると私が皇帝の許に居たから、この部屋にやって来たのかもしれない。
「護衛といっても……。万が一にも大事が生じたら……」
「街はそれほど危険な場所でもありませんわ。だから是非とも許可を」
 皇女は同意を求めるように皇帝に言い寄る。皇帝は困った顔を浮かべながら此方を見て尋ねた。
「フェルディナント、最近の街の様子はどうだ?」
「平穏で犯罪の発生率も低く、マリ様がその御正体を知られずに街を行くのでしたら問題は無いかと思います」
「ふむ……。では護衛としての適任者は」
「身内を推薦して申し訳ないのですが、私の弟のハインリヒを任に当たらせては如何かと思います」
「適任といえば適任だな。ハインリヒの武勇は誉れ高い。ではフェルディナント、お前の弟に極秘で頼んでもらえるか」
「御意」
 皇女マリは嬉しそうに微笑む。その表情から察するに、全て彼女の計画通りに働いたのかもしれない。
「それでは私はこれで失礼致します」
 二人に最敬礼して部屋を退室する。何とか皇帝の前では取り繕えたものの、具合が悪かった。王宮内は空調によって一定の気温が保たれているのに、額から汗が噴き出していた。それに先程から息苦しい。皇帝からサインを貰った書類を内務省に提出するのは、オスヴァルトに任せたほうが良いかもしれない。こうして歩くことさえきつい――。
「お疲れ様です。閣下……。閣下!?」
 宰相室に戻るのが精一杯で、扉を開けて一歩踏み込むなり、その場に座り込んだ。情けないことにもう一歩も歩けなかった。激しい頭痛と吐き気、それに眩暈。息が上がったまま、落ち着かない。オスヴァルトが何か言っていたが、それさえも理解出来なかった。
 もしかしたら突然死というものなのかもしれない――そう思った。こんなに具合の悪いことはこれまでに経験が無かった。無理をしすぎてしまったのか。
 だが、たとえこれで命を落としても後悔は無い。私はやりたいことをやり遂げた。一日一日を悔いの無いように生きてきた。だからこのまま命を落としたとしても 後悔は無い――。


[2009.8.8]