心地良い風が窓から流れ込んでくる。手にしていた本に栞を挟んで窓辺に移動すると、潮の香りがふわりと鼻腔に達する。太陽の光を浴びて、海がきらきらと輝いていた。
 もう少し視線を先に遣ると、人気の多い砂浜が見える。人々が夏のヴァカンスを楽しんでいた。色とりどりのパラソルが並び、耳を澄ませば楽しそうな声も聞こえてくる。帝都もこの町も同じ時間なのに、此方の方が長閑な時間が流れているようだった。
「フェルディナント様。下でお茶でも如何です?」
 ミクラス夫人がやって来て、そう問い掛ける。頷いて窓を閉め、階下へと向かう。
 此処は帝国西部にある海に面した町――マルセイユだった。この地に別荘を有しており、長期休暇には此方に足を伸ばすことも多い。


 宮殿で倒れたのは、今からふた月前のことだった。側に居たオスヴァルトがすぐに医師とロイに連絡を入れてくれた。処置が遅れれば、命は無かったかもしれないと後になって医師に告げられた。私自身、あの時のような苦しさは嘗て味わったことがなかったので、死ぬかもしれないと覚悟していた。
 宰相室で応急処置を受けて起き上がれるようになってから、ロイに連れ帰ってもらった。意識が朦朧としていたようで、そのことははっきりと覚えていない。どうやって寝室に行ったのかさえ解らない。明瞭なのは、倒れてから三日後のことだった。呼び掛けられたような気がして眼を開けると、ミクラス夫人が力の抜けたような安堵の息を吐き、ロイも同じように息を吐いた。聞けば三日間、生死の境を彷徨っていたのだという。私はまだ生きていた。

 生きていたとはいえ、私の知らぬうちに身体には随分な負担がかかっていたようで、それから一週間は、自力で起き上がることも出来なかった。こんな状態で職務に復帰することも出来ず、ロイの手によって休職願が提出された。暫くは全てをオスヴァルトに委ねるしかなかった。オスヴァルトは数日に一度、自宅を訪れては相談と報告をしてくれた。私と同じような激務であったにも関わらず、オスヴァルトはいつもと変わらぬ様子だった。
 健康でありさえすれば、これぐらいの激務には耐えられただろう。そう考えると、彼やロイの身体が羨ましかった。私の身体は二週間が経っても元のようには動かなかった。歩こうとしても足に力が入らず、暫くの間は車椅子や杖に頼った。このままでは休職期間を延長するどころか、辞職しなければならないかもしれない。弱り切った身体に鞭打とうとも、却って体調を崩すばかりだった。
 そんな折、医師から空気の良い地での療養を勧められた。環境には細心の注意を払っているとはいえ、帝都は人口が多いからどうしても他の町より空気が濁る。早く復帰するためにも空気の良いところで静養した方が良い――と、医師だけでなくミクラス夫人やロイからも勧められて、そうすることにした。移動は帝都から車で丸一日かかり、長時間の移動はやはり身体の負担となって二日ほど寝込むことになってしまったが、それからはこの長閑な町の空気と景色に癒されたのだろう。身体を休めてきちんと食事を摂るという規則的な生活を送ることで、激減していた体重も元通りになった。そしていつしか杖も必要なくなり、一人で外を散歩出来るようにもなった。


「帝都にお帰りになってもまた以前のように御無理をなさってはいけませんよ」
 ずっと付き添ってくれたミクラス夫人が、毎日のようにそう言い聞かせる。今回のことでは周囲に大分迷惑をかけてしまった。ミクラス夫人の言うように、無理の出来る身体ではないのだから、今後の執務のことは少し考えなくてはならない。先月、この町に発つ少し前にロイが寝室にやって来た時のことだった。死んでも仕方がないと思っていたと言ったら、ロイは激しい剣幕で怒った。どれだけ心配かけたと思っている――と。
『俺もミクラス夫人も皆、お前の意識が戻らない間、気が気でならなかったのだぞ!? それをいつ死んでも後悔が無かった、だと!? 随分身勝手な言葉だ』
 ロイは私が意識不明の状態となった時も、周囲にはそれが漏れないように取りはからってくれたらしい。私が復調したら、また元のように復帰できるように。生死の境を彷徨う危険な状態にあったことは、皇帝でさえ知らず、ロートリンゲン家の者しか知らないことだった。
 ロイに身勝手だと言われてから少し反省した。私の身体は私のものではあるが、それを支えてくれる人々がいることを失念していた。
「解っているよ。ミクラス夫人。反省して少し仕事を減らすことにした。副宰相のオスヴァルトに分掌出来るものは頼む」
「是非ともそうなさって下さい。……尤も私としてはこの際、お務めをお辞めになって御屋敷でのんびり過ごしていただきたいところですが……」
「それは出来ないな。もう少しやりたいことがある」
「そう仰るだろうことは解っています。ですが、私としては言いたくなるものですよ」
 微笑み返して、カップを持ち上げる。ハーブの入った紅茶は仄かに甘かった。
ミクラス夫人はこの辺も大分住人が増えたと言った。確かに子供の頃は鳥の囀りしか聞こえないような場所だった。近くに観光地が出来たせいだろう――そう答えると夫人は少し口を尖らせて言った。
「私は政治のことなど解りませんが、観光地が出来たのはフェルディナント様が領地を皇帝にお返しになったからですよ。この辺り一帯の領地もロートリンゲン家の所有地でしたのに、帝都の邸宅以外は手放してしまわれるのですから」
「そうしなければいずれ土地が不足する。……いや、既に帝国内の人口に対して土地は不足気味だ。だが土地を持っている旧領主達が土地を返上すれば、それも大分緩和される。実際、人々の住宅事情は施行前の一昨年と比べて格段に良くなったからな。まだ土地を返上していない者もいるが彼等にもこれから理解を求めていくつもりだ」
「立派な理想をお持ちなのは理解していますが、人の恨みをお買いにならないように」
 ミクラス夫人がそう心配するのには理由があった。法令を出した直後、宮殿からの帰り道に暴漢に襲われるという事件に遭ったことがあった。拳銃とナイフを持った若い男で、何者かが雇った暗殺者のようだった。尤も彼等からすれば、私がその男を撃退したことは計算外だっただろう。自分の身は自分で守れという父の教えのもと、ロイほどではないが私自身もそれなりに武芸を身につけていた。たとえ数人の暴徒に囲まれようと自分の身を守ることは出来る。とはいえそれ以来、ロイが私と共に出勤することが多くなった。私を案じてのことだろう。暗殺者も流石にロイには手を出そうとしなかった。ロイの武勲を知っていれば、容易に手を出すことは出来ない。忽ちに捕らえられてしまうことが解っているのだろう。
「ミクラス夫人。来週末には帝都に戻る。そのように準備を整えてもらえるかな」
「承知しました。体調の方はもう宜しいようですからね」
「おかげで完全に復調した」
 ミクラス夫人は満足そうに微笑む。ふと壁にかかった時計を見上げると、午後四時を過ぎたところだった。この時間になれば陽射しも大分穏やかになる。ぶらりと外を歩いて来ようか。
「少し散歩してくる」
「行ってらっしゃいませ」
 時計と携帯電話を手に、邸を出る。この邸は小高い森のなかにある。小道を歩いていると、光を受けた木の葉が、足下に斑に影を作っていた。

 森のなかを散策するだけでも軽い運動にはなる。そして町に降りるには三十分ほど歩かなければならない。それでも何となく町の様子を見てみたくて、足は自ずと町への道に向いていた。


[2009.8.15]