オスヴァルトが扉を開けると、ベッカーが狼狽した様子で現れた。彼に入るように告げて、椅子に座らせる。初老の医師は真っ青な顔色で、宰相閣下と呼んだ。
「私は……罰せられるのでしょうか」
「それは陛下がお決めになること。まずはエリザベート様の御倒れになった時と御逝去される前の御容態を知りたい」
   ベッカーの話では、風邪以外の症状は何も見当たらなかったのだという。事細かに事情を聞いても、不審な点は見当たらなかった。何者かが毒物を混入したのではないかとも考えたが、皇女の身体からは毒物も検出されなかった。
   では、ベッカーが自分のミスを庇うために嘘を吐いているのか――それも疑ったが、彼の話は辻褄が合っており、不審な点は何も無い。調べるほど、皇女エリザベートは突然死したとする見方が強まっていく。
「……事情は解った。しかし陛下は貴方の診療ミスを疑っている。私も陛下のお怒りが解けるよう尽力するが……、侍医を解任させられることは覚悟してほしい」
「それは仕方ありません。私も早くエリザベート様の御不調に気付くことが出来なかったのですから……」
   ベッカーは真面目で有能な医師だった。皇族の侍医に選出されたのもそうした評判あってのことだった。皇帝が冷静さを取り戻していれば、彼に責任を問うこともないだろう。だが、問題は皇女のことにある。溺愛していた皇女を立て続けに二人も失って、今は的確な判断が出来ない。正直なところ、侍医解任で済むことが出来れば良いほうかもしれなかった。皇帝は医師免許すらも剥奪してしまうかもしれない。
   ベッカーには暫く宰相室に留まってもらうことにした。医務室ではいつ皇帝に呼び出されるか解らない。そうなった時、彼の身の安全を保障出来なくなる。彼にはこの部屋で、突然死について調べてもらうことにした。皇女フアナや私のような虚弱体質ではなくとも突然死という現象は起こるのかどうか――彼はゼロではないと答えた。ならばどれぐらいの確率で現れるのか、いくつかの事例を挙げてほしい、と彼に頼んだ。納得できる材料があれば、皇帝も冷静な判断を取り戻せるかもしれない。

「ルディ」
   扉を二回叩いて開き、顔色を変えてロイが入室した。皇女エリザベートの訃報を聞いたのだろう。
「エリザベート様が御逝去されたと聞いた。何故、あの御方が……」
「突然死のようだ。私も驚いた」
   ロイは口を噤み、俯いた。何か話があるのだろう。そしてその話を私は薄々と解っていた。ロイは辺りを見渡す。部屋のなかにはオスヴァルトもベッカーも居た。そのことが、何故か私を安心させた。


   安心――?
   私は聞きたくないのだろうか。
   ロイはこう聞きたいに決まっている。皇女マリとの婚約に変更は無いだろうな――と。皇女マリが次の皇帝になることは、もうこれで決まったようなことで、そうなるとその相手を選ぶことに皇帝や皇妃も慎重となる。ロイとの婚約は白紙に戻されてしまうかもしれない。
   そしてそのことにもまして、私自身が複雑な思いを抱えている。ロイが皇帝と同じ権力を持つことになる。私の弟のロイが――。
「少し……良いか、ルディ」
   ロイは別室で二人きりで話をしたいと言い出した。そうなると拒むことは出来なかった。

   宰相室の奥にある私の専用の部屋にロイを通す。ロイは部屋に入るなり、私を見つめて言った。
「こんな時に自分のことばかりで悪いとは思っている。……だが教えてくれ。マリと俺のことは何も変わらないよな……?」
「……尽力する。それよりもお前は宮殿の護衛を固めるよう指示を下してくれ。何も無いとは思うが、国葬の際に間違いがあってはならない」
「解った。済まなかった」
   ロイはそれだけ告げると此方に背を向けた。部屋を出る直前、私の方を振り返り、こんな時に済まなかった、ともう一度謝った。
「いや……。お前が慌てるのも無理ないことだ。マリ様のことはまた延期になるかもしれないが、私も尽力する。……陛下が冷静さを失っている今、私もこうとしか言えない」
「そうか……。フアナ様に続けてエリザベート様と立て続けでは、陛下の御心痛も深いことだろう」
   そう言ってロイは宰相室を去っていった。
   ロイは決して権力を握りたい訳ではない。ただ愛した女性が皇女だっただけだ。しかもロイは出会った当初は皇女と知らなかった。
   ロイは権力に執着する人間ではない。ただ、愛しているだけだ。皇女マリのことを――。
   解っている。そのことは解っているが――。



「そのような調査結果を鵜呑みにしろというのか、フェルディナント!」
   皇帝の声がまるで雷のように部屋のなかに轟き渡る。皇女エリザベートの死に関する報告の最中のことだった。結論として突然死であると告げた時、皇帝は私を睨み付けて怒声を浴びせた。
「虚弱な体質でなくとも、突然死を引き起こす事例があります。また、他の医師に依頼し調べましたが、エリザベート様のお身体からは毒物も検出されず、不審な点は何ひとつ御座いません」
「診察ミスに決まっておる!その日の朝まで、エリザベートは何の変調も無かったのだぞ?体調を崩し、それから数時間のうちに死んだ。これは其処に居るアドルフの診療ミスがあったに決まっていることだ」
「陛下。彼の行った処置も他の医師達の前に提示しました。彼等は自分が侍医の立場にあったら同じ診療を行ったと言っております」
「黙れ!フェルディナント、皇族の侍医という職責にある以上、何をおいても死を回避させなければならない責務を負っている。今すぐにアドルフ・ベッカーから医師の資格を剥奪し、皇族の命を軽んじた罪で投獄せよ!」
「陛下!どうかお気をお鎮め下さい。ベッカーをそのような理由で解任したら、次に侍医となる者が現れません」
「これは命令だ。逆らうというのならばフェルディナント、お前も同罪と見なす!」
「陛下……」
   現皇帝は思慮深い穏和な、それでいてきちんと自分の意見を述べる名君だと称せられてきた。ただ一点、皇女達を溺愛しすぎるということだけが欠点だった。まさかその欠点が、皇帝の長所を奪ってしまうとは――。
   ベッカーは黙って俯いていた。皇帝は彼をすぐに投獄するよう告げた。ベッカーは私を見、ゆっくりと頷いた。まるでそのことを覚悟していたかのように。
   皇帝の部屋を後にすると、ベッカーは仕方が無いのですと小さな声で言った。
「覚悟はしていました。それにエリザベート様をお救い出来なかったのは事実です」
「しかし……」
「これ以上、私を庇えば閣下に御迷惑がかかります。どうぞこのまま私を刑務部に連行して下さい」
   何故、こんな生真面目な人物に罪を着せなければならないのだろう――。
   彼には何の非も無い。皇帝にそうと告げても、皇帝は耳を貸さない。誰が聞いても私が正しいと言うだろう。だが、皇帝が頑としてそれを認めない以上、誰も私の言葉に耳を貸さないだろう。
「……済まない……。貴方に責任は無いのに私が非力だったために……」
「私が陛下の御不興を買ったので仕方がありません。陛下に逆らってこの帝国では生きていけませんから……。むしろ処刑を命じられなかっただけ良いのです」
   力の限界を感じた。宰相であっても、官職として最高の地位を得ても、皇帝の前では赤子に過ぎない。何の力も無い。


   ああ、だから――。
   だから、レオンは言っていたのだ。君主制――とくに専制国家は民を苦しめるものだと。私は否定した。良き君主に巡り会えれば、民は苦しむ必要もない。良き君主は己よりも民を大事にするものだ――と。それに対してレオンは言った。ではもし良き君主と巡り会えなかったら? その時、国はどうなるのか、と。私は答えた。部下が諫めなくてはならない、と。
『では部下が諫めたとする。そのとき皇帝が聞く耳を持たなければ?』
   私はそのような事態は無いものと仮定しながら、それが起こることを常に危惧していた。この帝国において皇帝の発言を抑えるものは何も無い。それが専制国家と言われる所以だった。私はそうと知りつつ、これまで具体的な対策を講じてこなかった。皇帝が私の話を聞いてくれないことなどなかったから、そのような事態は起こらないと考えていた。
   私が甘かった――。


   ベッカーは裁判を受けることもなく、禁固刑に処せられることになった。せめて刑期を短く出来ないかと考えた末、司法省の長官であるハイゼンベルク卿に詳細を話してみた。ハイゼンベルク卿は守旧派ではあり、普段はあまり話もしないのだが、自身の損得で動く人ではない。ベッカーには罪の無いことだと、ハイゼンベルク卿も頷き、彼の刑を減ずる措置を講じてくれることになった。
「1年ないしは2年ということで宜しいか。流石に半年では陛下のお目についてしまう」
「ありがとうございます。それを聞いて少し安堵致しました」
「フアナ様にエリザベート様……。陛下がお怒りになるのも仕方あるまい。彼に咎は無くとも、侍医である以上、責任は負っているものだ」
「解任は致し方無いことと思います。しかし禁固刑に処すとは予想もしておりませんでした」
   ハイゼンベルク卿は、貴卿はまだ若い、と苦笑して言った。
「宰相に向かって失礼な言い方ではあるが……。陛下が皇女を溺愛なさっていたことは卿も御存知だったろう。私の周りでは皇女に万一の事態が生じたときのことを案じない声は無かった。事実その通りになったということだ」
   私の周りと彼が言ったのは、守旧派の者達がということだろう。私は皇帝がここまで見境を無くすとは考えていなかった。
   それはハイゼンベルク卿の言う通り、私が甘かったということか。


[2009.9.19]