「お帰りなさい。お疲れでしょう」
   士官学校からそのまま本部に向かい、執務に専念して、帰宅したのは日付が変わる刻限だった。
「教室まで見せてもらったよ。懐かしかった。ユリア、ブランデーを持って来てくれるか」
   ユリアが一旦部屋を出ていく。その合間に軍服から部屋着に着替える。扉がノックされ、フリッツがやって来た。
「フリッツ、休んで構わんぞ」
「ありがとうございます。弁護士からの手紙が届きましたので、御報告を」
   ハインリヒの件だろう。フリッツから手紙を受け取り、開封すると示談が成立した旨が記されていた。相手側が漸く納得したとのことだった。
「一段落といったところだ。御苦労だった、フリッツ」
「旦那様こそ、お疲れ様でした」
   手紙をテーブルの上に置き、ソファに腰掛ける。程なくしてユリアがブランデーとチーズを持って来てくれた。

「フェルディナントはもう寝たのか?」
「ええ。今日は少し調子が悪いようで早めに。貴方に報告があったみたいで、起きて待ちたかったようだけど」
「報告? 何かあったのか?」
   ユリアは手に持っていた数枚の紙を開いて、私の前に出した。フェルディナントのテストだった。全て9割以上の点数で、満点が3枚ある。
「此方は全く心配する必要が無いな」
「勉強に関しては。ルディも色々悩みがあるようですよ。それからもうひとつ報告がありますから、それはルディから聞いて下さいな」
「もうひとつ?何だ?」
「良い報告です。褒めてあげて下さい。……ルディもクラスにあまり馴染めていないみたいですから」
「フェルディナントも官吏になるつもりなら、勉強と思うしか無いな」
   ブランデーを一口飲み、その芳香に一息吐く。ユリアはフェルディナントのテストを丁寧に畳み、貴方の言うことも尤もですが、と言った。
「多感な年頃です。それに、ルディもロイも良い子達ですが、傷つきやすい節があります。貴方は時にその傷を抉ることがあるから気を付けて」
「……随分手厳しい言葉だな」
   ユリアはくすりと笑う。子供達に厳しすぎると言いたいのだろう。とくにフェルディナントに。

「叱ってやれるのは私達だけだ。私達以外の誰もあの二人を叱りはしないだろう。間違った行いをしても、叱ってもらえないことのほうが余程哀れではないか」
「ええ。でもフランツ、傷を抉るような叱り方は無いと思うのよ。……それにロイのことも。今回はロイが悪かったとはいえ、強く殴りすぎです」
   酷く腫れ上がっていたではないですか――と言いながら、ユリアは私を咎めるような眼で見る。

   一連のことが解決したと思ったら、ユリアから小言を聞かされるとは――。
   確かに強く殴りすぎたかもしれないとは後で思ったことだが、あの時はかっとなって力を抑えるのを失念してしまった。
「ロイには力で、ルディには口で傷を抉るのですから。ロイもこのたびのことは随分反省しましたから、貴方も少し自重してください」
「……心に留めておこう」
   空になったグラスに3杯目のブランデーを注ごうとすると、ユリアの手が伸びてきてブランデーの瓶を先に取った。注いでくれるのか――と思ったら。
「そして貴方ももう若くないのですから、お酒も控えめに」
「……健康診断で異常は何も無いぞ」
「異常が出てから控えても遅いのです。ルディやロイが立派な大人になるまで見届けなくてはならないのですから」
   ユリアはもともとそう強く物を言う人間ではなく、やんわりと話をする人間だったが――。
「……強くなったな、ユリアは」
「貴方と一緒になって強くなってしまいました」
   ユリアは笑みを浮かべてみせる。それに苦笑すると、ユリアもつられるように声をたてて笑った。

「五年後にはハインリヒが入隊か……。フェルディナントも大学を卒業する。そう考えると早いものだ」
「ロイが入隊したら、貴方は退官なさるの?」
「ああ。ハインリヒが卒業と同時に私は退官する。ユリア、そうしたら二人で各国を巡り歩かないか?」
「楽しみにしています」


   翌日になって、フェルディナントは半年前に書いた論文が優秀賞を獲得したことを告げにきた。外交に関する論文だったらしい。
   外交官を志望しているのではないか――と薄々思ってはいたが、こういう論文を書くということは、やはり外交官を目指すつもりなのだろう。
「外交官となるにはもう少し身体を丈夫にしなければならんぞ」
   フェルディナントは今日、学校を休んだ。昨晩、急に高熱を出し、昼になって漸く下がったらしい。
「……はい」
「あとは頑張りなさい。まずは帝国大学への進学だろう。あそこの法学部はかなり難しいからな」
「……良い……の……?」
   フェルディナントは眼を丸くして私を見つめた。私の返答がさも意外だったかのように。
   まさか反対されると思っていたのか――。
「お前がやりたいことならば反対はしないぞ」
「……芸術家か文筆家が良いってずっと言ってたから……。絶対に反対されると思ってて……」
「お前の身体を考えれば、官吏の道には進んでほしくなかった。芸術の道を志してくれれば、個展を開いてやれることも出来るし、美術館を作っても良いと思っていたがな。……だが、お前は外交官となりたいのだろう?」
   フェルディナントは力強く、はいと応えた。まったくこういう時は良い顔をする。
「ならば頑張りなさい。多少のことで挫けてはならんぞ」


   その後、ハインリヒは問題を起こすこともなく、進級を重ね、士官学校を首席で卒業した。フェルディナントもグリューン高校を卒業した後、帝国大学へと進み、此方も首席で卒業して、外交官への道を歩み始めた。
   子供達の成長は早いものだった。そして私もあっというまに年を取った。



「あれ。ルディはまだ帰ってなかったの?」
   リビングルームで寛いでいると、ハインリヒが軍服姿のまま部屋にやって来た。
「今日は遅くなるって先刻、連絡が入ったわよ」
「……だったら外務省に寄って来れば良かった。もう疾うに帰ってるかと思ったのに……」
   ハインリヒは呟いて溜息を吐く。口振りから察するに、外交関係の文書に手を拱いているのだろう。
「自分の仕事は自分で済ませなさい。如何に兄とはいえ、其処まで頼っては駄目だ」
「過去の資料を読み返さなきゃいけないからさ。……ルディに聞けば一度で解るし……」
「そういう手間を惜しんではならないといつも言っているだろう」
   ハインリヒは肩を竦めて部屋を去っていく。隣でユリアがくすりと笑った。
「仲が良いこと」
「……ハインリヒはフェルディナントに頼りすぎる。あれも困ったものだ」
   それでも仲の悪い兄弟ではないことは幸いか――。
   今後もこれだけ兄弟仲が良ければ良いが――そんなことを思いながら、読みかけの本に視線を落とした。

【End】


[2010.3.27]