8.喧嘩騒動〜父の裁断



   ハインリヒが上級生と喧嘩をして怪我をさせた――。
   軍本部の執務室でその報せを受けた時には、驚きのあまり言葉を失った。士官学校の学校長を務めるカルナップ大将から直接電話がかかってきて、学校で何かあったのかとは思ったが、まさかそんなことを聞くことになろうとは思わなかった。
「大変申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました」
   側に居た少将が何事かと此方を見遣る。落ち着こう落ち着こう、と何度も自分に言い聞かせた。
「そうですか……。処分は厳正にお願いします。此方からも謝罪に行きますから……。ええ、名前と連絡先を教えて頂けますか」
   側にあった白い紙に名前と住所、そして電話番号を書き付ける。それから電話を切った。すぐに家にも報せなければならないが、何よりも自分自身が動揺していた。あのハインリヒがそんな馬鹿げた事件を起こすとは――。
「あの、閣下。何か御座いましたか……?」
「いや……。執務とは関係の無いことだ。済まないが、今日は早急に執務を終わらせて帰宅する」
   何が原因なのか、気にかかる。否、原因も何も、殴った方が悪い。だが、あのハインリヒが無闇に暴力を揮うことは無いと思っていたのに――。
   何があった――?


   少将が部屋を去ってから、邸に連絡をいれて事の次第を伝えた。ユリアはすぐに相手方の学生に謝罪の電話をいれます――と言い、電話を切った。
   頭部を三針縫う怪我を負ったと言っていた。カルナップ大将からの話では、ハインリヒが殴った時に相手の学生が転んでしまい、其処にあった岩に頭をぶつけ、頭を切ったらしい。周囲に居た学生達はハインリヒが一方的に殴りつけたと証言しているという。ハインリヒはそれに対して何も答えていないらしい。
   急ぎの書類のみ処理を済ませて、この日は早めに帰宅した。ハインリヒはまだ帰っていなかった。

「フランツ。相手側の学生さんの御自宅に電話をしたのだけど……、酷く怒ってらして……」
「当然だろうな。ハインリヒが一方的に殴りつけたと聞いている。怪我の方は?」
「それが……、今日は入院らしくて……」
「……三針縫っただけだと私は聞いたが……」
   もしかして深刻な怪我なのかとひやりとした。
「ええ。貴方がそう仰っていたから、まさか入院と思わず、私も吃驚してしまって……。入院したのならお見舞いにいかないといけないと思って、病院を尋ねたのだけど、教えて下さらないの」
「まあ……、頭部だから大事を取ったのかもしれんな。ユリア、明日は半日休暇を取っておいた。相手の家に謝罪に行くから、お前もそのように準備を」
「ええ、解りました。……フランツ、ロイはもしかしたら学校で上手くいっていないのではないかしら」
   軍服を脱いでいると、ユリアはそれを受け取りながら言った。ハインリヒに少し元気が無い――ということは、以前からユリアが言っていたことだった。
「だがどのような理由があれ、暴力を揮って良い筈が無い。……それにハインリヒは子供の頃から私が鍛えてきた。腕っ節は他の学生達より強い筈だ。だからよく言い聞かせていただろう。喧嘩をするな、と」
「ええ……。ロイが怪我をさせたことが一番悪いことだとは私も思います。ですけど、何か原因があったのではないかと思って……。あの子が理由無く暴力を揮うようには思えないんです」
「お前の言いたいことは解っている。私も同じ思いだ。……が、怪我をさせたというのは事実だ」
   それから暫くして、ハインリヒが帰ってきた。すぐに書斎に呼び寄せる。ハインリヒは俯いたまま部屋に入ってきた。


   すぐに謝罪したのなら、先に話を聞いてやろうと思っていた。だが、ハインリヒは私を見ても黙ったままだった。
「自分が何をしたのか解っているのか!」
   その態度にかっとなって、襟首を掴み、拳を握り締めて二発殴った。その時になって、ハインリヒはすみません――と謝った。経緯を話してみろ、と促したところ、なかなか話そうとしない。自分に後ろめたいところがあるのかと思った。
「私は常に言ってきた筈だ。喧嘩をすれば、大抵の相手にはお前は勝つ。だから暴力を揮ってはならんとな」
   ハインリヒは俯いたまま拳を握り締めていた。経緯を話すようもう一度促すと、ハインリヒは漸く語り始めた。

「俺は……、殴ったけど……でも先に殴りかかってきたのは向こうなんだ……」

   ハインリヒの語る事情は、学校側の説明よりも頷ける内容だった。戦闘シミュレーションでハインリヒのグループが勝ったのに、相手が謝罪を求めてきたのだという。上級生を相手にしたという理由もこのとき漸く納得した。戦闘シミュレーションは縦割りグループで構成されていて、そのなかで擬似的な階級を定め、指揮を行う。今回怪我をした相手というのは、相手方の司令官となった学生らしい。
   しつこく謝罪を求めるその学生に対して、ハインリヒのグループの上級生は相手の求めるまま、土下座をして謝ったのだという。しかしハインリヒは謝らなかった。何故、謝る必要があるんだと喰ってかかったらしい。そうしたら、喧嘩をふっかけられた。

「事情は解った。……だが、怪我をさせたという事実は覆らんぞ。今回の一件で、一番悪いのはお前だ。縫合だけで済む怪我だったから良かったようなものの、打ち所が悪ければ死ぬこともある」
「……はい……」
「明日、謝罪に行くからきちんと謝りなさい」
   ロイは項垂れたまま部屋を出て行った。この日はそれ以降、部屋に閉じこもって姿を見せなかった。

   これまで、ハインリヒはたとえ叱られても、けろりとしていることが多かった。今回の一件はハインリヒ自身にもショックが大きかったのだろう。まさか怪我をするとは思わなかった――そう言いたそうな表情をしていた。
   ハインリヒの説明する状況からは、喧嘩を仕掛けてきた上級生側にも問題があるようだが、カルナップ大将はそれを把握していないようだった。ハインリヒが一方的に殴りつけたと言っていた。
   士官学校で何か問題があるのだろうか――。

「……随分落ち込んでいるみたいで、部屋にも入れて貰えなかったわ」
   ハインリヒの許に行っていたユリアが、寝室に戻ってくる。ハインリヒは誰の入室も拒んでいた。
「構わないから放っておけ」
「でも……」
「一人で反省することもある。明日になっても出て来ないようだったら、私が見に行くから」
   ユリアは常にないハインリヒの様子を酷く心配していた。私も色々と考えてしまい、この日はなかなか寝付けなかった。


[2010.3.20]