ページを捲る手を止めず、ロイは何気なく私に問い掛けてきた。
   もし父や母、ミクラス夫人達にそう問われていたら、楽しいと私は応えていただろう。だが、相手がロイだと思うと隠す必要も無いように思われた。

「……授業は楽しいよ。でも……、正直に言うと、対人関係に少し疲れてる」
「疲れる……?」
「私達は旧領主家の人間だし、そういう眼で見られることは覚悟してるけど、解っていても影口を叩かれるのはどうも慣れなくて……。それに、皆が一線を引いているようで、遠慮がちで……」
「……いじめを受けているのか?」
「そうじゃない。そういうことではないんだが……、そうだな、私が気にしなければ良いのだけど、たとえば誰も私のことをフェルディナントとは呼ばない。勿論、ルディとも。ロートリンゲン様と敬称付きだ」
「それは嫌だな。俺が通ってた学校はそんなことはなかったぞ」
「私に取り入ったところで、何にもならないのにな。そうかと思えば、成績が良いのは試験問題を事前に見ているからだとか、根も葉もないことを影で言う」
「それは俺もあった。テストの点が人より良ければ、やっかまれるし、逆に悪ければ旧領主家の息子なのに、と言われる」
   同じ人間なのは変わらないのにな――と呟いてから、ロイはひとつ大きな溜息を吐いた。

「……でも士官学校よりは良かったな……」
「ロイ……」
「喧嘩したんだ、上級生と」
   ロイは机を見つめたまま話し出した。
「月に一度、幼年コースの縦割りグループで戦闘シミュレーションをやることがあるんだ。喧嘩をしたのはその対抗グループの相手だったんだけど……。シミュレーションではそいつらに勝ったんだ。けれど、その後で俺達のグループが全員呼び出しを喰らった。土下座をして謝れと言ってね。戦法が汚いとか言ってたけど、向こうの油断を突いただけで、そんなことは無くて正々堂々と戦って勝ったんだ。教官も見事な戦法だと褒めてくれたぐらいにね。……でも先輩が謝った。謝ることは無いって俺が言ったら、生意気だと言って殴りかかってきて……」
「それだったら……、ロイは悪くないじゃないか」
「そこまではね。それから派手な喧嘩になって……。士官学校では喧嘩は禁止されているから、気を付けていたけど……、でもあいつらが旧領主層の人間だからと良い気になるなと言って、かっと来て……。殴ったらそいつが後ろに吹っ飛んで、頭に怪我をしたんだ」
「でもロイ、それは……」
「転んだ場所に岩があったんだ。頭から血が沢山流れ出して、その時、本当に吃驚して……。相手はすぐ病院に運ばれて、俺は学校長の呼び出しを受けた。事情を説明しようとしたら、相手側の取り巻きが、俺が勝手に殴りつけたと言って……」
「父上にはきちんとその事情を説明したのか……?」
「したよ。そうしたら父上でどんな状況であれ、殴りつけた俺が悪いって……」
   父は厳しいから確かにそう言うかもしれない。単なる喧嘩だけなら――、ロイが殴ったことで怪我を負っていなければ、此処まで怒っていなかったかもしれないが――。
「……それにルディじゃないけど、俺もあまりクラスメイトとも上手くいっていないんだ。父上に口聞きをしてくれとかそういう奴ばかりで……」
「そうだったのか……」
「ジュニアスクールに通っていた頃は此処まで露骨じゃなかった。友達もそれなりに居たしな。だけど士官学校では友達すら出来ない。皆、足を引っ張り合ってるんだ」
「ロイ……」
   ロイはロイらしくもなく項垂れる。私はどう声をかけて良いか解らなかった。怪我をさせたことは悪いことだが、原因を作ったのは相手側ではないか――。

「……生徒だけじゃない。教官達も俺に気を遣う。いや……、気を遣うというより、媚びを売るといった方が良いのかな。この前も数学のテストがあったんだけど、その一週間前、教官が俺に復習用のプリントだといって手渡したんだ。その時は気付かなかったんだけど、テストの時、まるきりそれと同じ問題が出て……」
「お前だけにプリントを?」
「ああ。だから……、気が引けて解答せずに提出したんだ。白紙でね。それなのに、テストの点数は満点だった」
   流石に驚いた。
   ロイの置かれている状況は私より深刻だった。きっとロイの場合は、旧領主層出身ということだけではない。父が大将で、軍のなかでは最上層に居ることが関係しているのだろう。士官学校の教官も軍の組織に組み入れられているから、大将の息子であるロイを悪い風には扱わない。教官達が贔屓するのは、そうすることで父の協力を得て、昇級を考えているからだろう。
「そういうことはきちんと父上に話しているのか?」
「……話してない」
「話さなければ何も解決しないだろう」
「ルディだって学校のこと黙ってるじゃないか」
「私とロイの置かれている状況は少し異なる。……ロイに比べれば、私はまだ恵まれてる。少なくとも教師が私を贔屓することは無いからな。その数学の試験の話は誰が聞いても奇妙な話だぞ」
   思い返してみれば、このところ電話口でもロイに元気が無かった。私も早く気付けば良かった。
「明日にでも話した方が良い。そうしたら父上だって、今回の喧嘩が何故起こったのか解ってくれる筈だ」
「……言えないよ……。最近、母上がよく電話くれていたんだ。変わったことは無いかっていつも聞かれて……。元気だし大丈夫だっていつも応えてた……。それなのに……、母上にずっと嘘を吐いてたことがバレるじゃないか……」
「ロイ。それは仕方無いよ」
   母上は何か勘付いていたのかもしれない。確かに私にも最近よく学校のことを問い掛けていた。ロイから連絡があるかどうかということも――。
「……嘘を吐いていたとまた父上に殴られるじゃないか……。もうあんな殴られ方は懲り懲りだ」
   ロイはふいと私から眼を逸らす。部屋に入った途端に二発殴られたというのだから――、おまけにこんなに腫れるぐらいだから、相当きつかったのだろうが――。

「ルディは父上に殴られたことが無いから解らないだろうけど……。襟首を掴まれた時の恐怖といったら無いんだぞ」
   確かに拳で殴られたことは無いが――。
「……襟首を掴まれて平手打ちを喰らったことならあるぞ」
「……え……?」
   ロイは驚いた様子で私を見る。冗談だろう――と聞き返す。
「本当だ。子供の頃のことだがな。口答えをしたら襟首を掴まれて、平手打ちだ。何発か喰らったぞ」
「ルディは割と物事を利く子供だったじゃないか。何でまた……って、俺、初めて聞いたぞ」
「原因は私にあったことだし、どう見ても私が悪かったんだけどな」
「聞きたい。どんな原因だったんだ?」
「……心当たりは本当に無いのか?ロイ」
「無い。うん?俺に関係することか?」
   ロイはどうやら本当に憶えていないらしい。
   ロイとの喧嘩が原因だったのに――。


[2010.3.18]