7.喧嘩騒動



「フェルディナント様。もうすぐ休暇ですけど、どちらかへお出掛けになるんですか?」
   授業を全て終えて、帰り支度を始めたところ、同じクラスの女の子二人が私の机にやって来てそう尋ねた。
「いや、何も予定は無いよ。……君達はご家族と何処かへ?」
   二人は首を横に振って、私達も予定は無いんです――と応える。そして一人の女の子が、身を乗り出して言った。
「一緒に映画でも行きませんか? あの……、宜しければ弟さんも一緒に四人で」
   ロイのことを学校で話すことはまず無い。だから何故ロイを誘うのかよく解らなかったが、断る理由も見つからなかった。
「弟は来週末でないと帰って来ないのだけど、それからでも良いかな」
「ええ! 予定を合わせます!」
   彼女達に問われるままに携帯電話の番号を教える。彼女達はお先にと言って、意気揚々と教室を出て行く。

   鞄に教科書を収め終わったところへ、ケスラーから連絡が入る。校門前に到着したのだろう。
「あ、ロートリンゲン様。この間の入部の件、考えて頂けました?」
   教室を出て校門に向けて歩いていると今度は同じクラスの男子生徒が声をかけてくる。彼には、クリケット部への入部を勧められていた。
「済まない。やはり私は身体が丈夫ではないから遠慮しておく」
「運動神経が良いのに勿体ない。ロートリンゲン様が入部してくれるかもしれないと言ったら、先生も期待してましたよ」
「済まない」
   彼は尚も入部を勧めてくる。やがて校門の前まで到着する。車に乗り込もうとすると、何処からともなく声が聞こえて来た。

「車で通うほどの距離かよ」
「良い身分だよな。旧領主様は。成績も金で買ってるんだろ」
   心無い言葉には、もう大分慣れた。
   聞こえないふりをして、車へと乗り込む。お帰りなさいませ、とケスラーはいつも通りの笑顔で迎えてくれる。それにいつもほっとする。
「ただいま」
   ケスラーは学校の様子を尋ねる。一人で勉強するより楽しいよ――と、私はいつも応えていた。本当のところ、最近は少しその気持が変わってきたのだが――。


   旧領主家という立場柄、媚びや僻み、そうしたものが絶えず付き纏う。テストで良い点を取れば、教師が問題を横流ししているのだと言われ、体育でも贔屓した点数をつけていると陰口を叩かれる。
   そして、あからさまな好意を寄せてくる生徒も居る。そもそも私は敬称無しで呼ばれたことが無い。敬称は要らないといっても、彼等は敬称をつけて敬語で話しかけてくる。
   それらがどうにも息苦しい。

   本当は車で通いたくないのだが、護衛をつけないのならそうするようにと父の言いつけがある。子供の頃に誘拐されたこともあるから、仕方の無いことだとはいえ、自分が他の生徒達とは異なっているのだということを見せつけているような気分にもなる。


「お帰りなさいませ、フェルディナント様」
   帰宅するとフリッツが出迎えてくれる。今日は如何でしたか――と尋ねるフリッツに、いつも通りと告げて、母の居るリビングルームへと向かう。扉をノックしてから開け、ただいま、と母に告げる。
「お帰りなさい」
   母はいつも通りの笑顔で迎えてくれる。部屋の中に入って鞄から紙を取り出す。帰る前のホームルームで担任から渡された連絡用紙を、ファイルケースのなかに入れておいた。
「今度、面談があるんだって。日程が此処に書いてあるから……」
   母は私から書類を受け取って、眼を通す。解ったわ――と告げ、私に先に着替えを済ませるよう促す。

   高校生活も二年目が終わろうとしていた。三年目になると進学のことで色々と慌ただしくなる。面談は進学について保護者と話し合うものだった。自分の部屋に戻りさっと着替えを済ませて、またリビングルームに戻ってくる。その時には、部屋に母とミクラス夫人の姿があった。
「お帰りなさいませ、フェルディナント様」
「ただいま、ミクラス夫人」
「学校は如何でした?」
   変わりないよ――と答えると、ミクラス夫人はもう時期休暇ですね――と言いながら、私の前に珈琲を置く。母はテーブルの真ん中にあったケーキを切り分け、チョコレートケーキの一切れを私の前に差し出した。
「もしかして母上のお手製?」
「そうよ。解る?」
「オレンジが乗っている時は母上が作った時だから」
   母は時々、ケーキやクッキーを作ってくれる。母も何かと忙しい人ではあるが、時間を見つけてはこうして手間のかかるものを作って、私達を喜ばせてくれる。
「学校の面談は進路相談のようね。帝国大学への進学を考えているんでしょう?」
   ケーキを一口食べたところで、母が問い掛けてくる。うん、と答えると母はまた問い掛けた。
「学部は?」
「……法学部を目指したいんだ」
   大学進学を目指していることは父も母も知っていたが、具体的にどの学部に進みたいのかはまだ誰にも言っていなかった。母は珈琲を一口飲んでから、微笑みかけた。
「何となくそんな気がしていたわ。大学を卒業したら何をしたいの?」
   それも――、自分のなかでは朧気に決めていた。

「……官吏の登用試験を受けたいと思って……。難しいのは解ってるけど……」
「お父様を見ているから解るでしょうけれど、大変なお仕事よ。貴方は身体が丈夫ではないからあまり勧めたくはないけれど……」
「うん……。解ってるけど、官吏になりたいんだ」
   何か変わった職業を選んだらどうだ――とは、父に言われたこともあった。芸術に興味が無ければ文筆家になっても良いし、大学院に進学しても構わんぞ――と父は言ってくれた。
   私はそのどれにも興味が無かった。ただずっと興味を寄せていたのは――。
「政治に関心を寄せているから、官吏を志望するだろうとお父様も私も予想はしていたわ。……そのなかでも貴方が目指しているのは外交官じゃないの?」
「何で解ったの!?」
「やっぱりね」
   母はくすくす笑う。外交官になりたい――それは心に秘めていたことであって、まだ誰にも――ロイにさえ話していなかった。
「官吏登用試験のなかでも特に難しい試験ね。応援してあげたいけど、少し心配にはなるわ」
「母上……」
「外交官となれば各国を飛びまわることもあるでしょう。子供の頃から比べると大分丈夫になったとはいえ、やっぱり心配ね」
「……駄目だって反対する?」
   不安になって問い返すと、母は首を横に振って言った。
「貴方が選ぶ道ですもの。反対はしないわ。頑張っておやりなさい」
   ほっと安堵すると、でも大変なことよ――と母は釘を刺すように言った。
「うん……。解ってる」
「父上にもきちんとお話してね。残念がるかもしれないけれど、反対はしないでしょうから」

   父と話をしなければならないことは少々気が重かったが仕方無い。この山を乗り越えなければ、大学に進学することも出来ない。

   翌々日、父が休日だったこともあって、私は父の部屋へと赴いた。帝国大学の法学部に進学したい旨を告げると、父は溜息を吐いて、やはり官吏となる道を選ぶか――とぼやいた。どうやら父も薄々気付いていたらしい。
   美術家を志望してほしかったが、と父は言ってから、私の志望を聞き届けてくれた。母の言っていた通り、反対はされなかった。身体が弱いから官吏は厳しい――とは釘を刺されたが。


[2010.3.14]
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