ロートリンゲン家という家名だけで、命を狙われることはこれまでにも度々あった。身代金目的の誘拐未遂はそれこそ枚挙に遑が無く、ルディに至っては一時誘拐され、大変な目に遭ったことがある。屋敷が過激派に狙われたことも何度かある。

   一番よく憶えているのは、俺が物心ついた頃の――三歳の頃の出来事だった。

   あれは春先の休日だった。ロートリンゲン家のリビングルームは片側全面が窓ガラスで覆われ、外からの陽が燦々と降り注ぐ構造になっている。子供の頃、ルディはあまり外に出ることが出来ない身体だったから、せめて外の様子がよく見えるようにと改築したと聞いている。
   しかし、健康優良児の俺は家のなかだけでは遊び足りなくて、よく外に出ていた。外といっても邸の敷地内から、両親の許可為しに出ることは禁じられていた。俺が庭で遊ぶ様子を、ルディは家の中――リビングルームからよく見ていた。リビングルームには母も居た。二人に時折手を振りながら、俺は父と木登りをしたり駆け回ったりして遊んでいた。
   あの日も――。



「ハインリヒ。その小枝ではお前の体重は支えきれんぞ」
   木をよじ登っていると、下から父が苦笑混じりに言った。もう少し高いところに登りたかったが、父にそう言われて諦めた。そろそろ家のなかに入ろう――父に促され、俺は頷いた。
「父上、受け止めてね」
   木の枝に立ち、下にいる父にそう言うと、父は頷いて手を広げてくれる。それに向かってジャンプし、父の腕の中に飛び込む。父の大きな腕が俺を確りと抱き止める。
「さあ、部屋に行こう」
   父は俺を下ろしてから、促した。
   木々の生い茂るその場所は庭の端の方にあって、此処からリビングルームまでは結構な距離がある。木に登る前に見つけた虫を手に持って歩き、半ばまで来ると、リビングルームの中の様子が見えてくる。ルディが此方に手を振っていた。
「ルディ!」
   ルディに虫を早く見せてやろうと、ぱたぱたと駆け出した。
   この時、俺の視界には窓越しに立つルディの姿しか入っていなかった。

「ハインリヒ!!」
   父が俺の名を呼び、俺を抱きかかえて跳び上がった時も、俺は何が起きたのかよく解らなかった。ただ何か父の背後で光り、その瞬間に身体がふわっと浮き上がるような感じがして、地面に強く叩きつけられた。
「父上……」
   俺は父の腕に守られていた。怪我は無いな――と父は俺に言ってから、すぐ部屋に入るよう告げた。
「フランツ!」
「来るな!」
   窓が開き、母が此方に駆け寄ろうとした。父は俺を立たせて、背を押す。駆け寄ろうとした母に言い放った。
「ユリア。フェルディナントとハインリヒを連れて、避難しろ。早く!」
「早く、貴方も!」
「私よりも先に子供達を。行け! フリッツ、早く連れて行け!」
   父はすぐさま窓を閉め、俺達に背を向ける。いつのまにか部屋に来ていたフリッツによって、母と共にすぐ避難させられた。その直後、バンバンと銃声が轟いた。


   俺が生まれて初めて銃声を聞いたのが、この時だった。銃声が聞こえた時、母は振り返り、部屋に戻ろうとした。それをミクラス夫人が制したのを憶えている。

   邸には地下がある。其処は万一の時の避難場所と決められていた。扉は銃弾が打ち込まれようとびくともしない強固なもので、此処に避難しさえすれば身を守ることが出来る。また、ロートリンゲン家の者しか知らないことだが、この地下から外に出る道もある。フリッツは俺達を避難させるとすぐに父の許に向かった。母とルディと俺と、使用人達は其処で暫く身を隠していた。母は青ざめた顔をしていた。
   その時の俺は気付かなかったが、父は俺を庇った際に負傷していた。


   この日の事件の詳細を知ったのは、もう少し大きくなってからのことだった。
あの日、過激派の一派が庭に向けて手榴弾を投げ込んだ。俺はまったく気付かなかったが、父は塀を越えてきた飛来物に気付いて、すぐに俺の身を庇った。
   父に抱かれながら、身体が浮き上がったように感じたのは爆風だったのだろう。
   父は手榴弾の爆発によって右肩を負傷した。その後、塀を越えてきた男達が邸の庭を占拠した。父は銃弾を三発浴びながらも、防戦した。駆けつけたフリッツが父に拳銃を渡し、フリッツやパトリックと共に応戦したらしい。
   父は利き腕を負傷していたが、左手で拳銃を扱い、男達を倒した。15分後には警官隊がやって来て、その場で全員が射殺された。
   騒動が落ち着いて、地下から一階に戻ると、母は走ってリビングルームへと向かった。その母の後をついていくと、リビングルームの窓際に座り込んだ父の姿を見つけた。
   血塗れの父の姿を見たのは一瞬のことだった。父の身体は赤く染まり、フリッツとパトリックがソファにかけてあった薄掛で、父の肩を抑えていた。
「ハインリヒ様、いけません!」
   ミクラス夫人が俺の目を覆い、すぐに部屋から引き離した。同じようにルディもミクラス夫人に連れられて、別室へと連れて行かれた。
   父は重傷を負っていた。肩の損傷は骨まで達し、そればかりか三発の銃弾のうちの一発が、傷の中に埋まっていた。さらに一発は頭を掠め、もう一発は右足を貫通していた。
   その状態で暴漢と戦っていたのだから、まったく頭が下がる。父だけではなくフリッツやパトリックも負傷していた。
   俺は父に庇われて、掠り傷ひとつ負っていなかった。
   父はまさしく身をもって俺達を守ってくれた。



[2010.3.9]