「クリスティンとの縁談は、お父様が断ってくれたそうよ」
   この日、本部から帰宅して、母と共に夕食を済ませ、リビングルームで珈琲を飲んでいた時に母はその話を切り出した。ちょうど、父は出掛けていて不在だった。
「そう。正直、ほっとした」
「お父様自身がこの話にあまり乗り気ではなかったから……。フォン・シェリング家とロートリンゲン家に繋がりが出来てしまうと、軍務省での権限があまりに強くなると仰って」

   子供の頃からというのは、クリスティンが勝手にそう言っていたのか、それともフォン・シェリング大将がそう決めつけていたかのどちらかだろう。兎に角、破談となって良かった。

「私としては、良い話だったから話を進めたかったけれど……。貴方も付き合っている女性が居るというし……」
   母はまるで俺を促すように此方を見る。ユリアのことを聞き出したいのだろう。黙っていると、母の方から切り出してきた。
「まさか付き合っているというのは嘘では無いでしょうね」
「本当に付き合ってるよ」
「クリスティンが言っていたそうだけど、一般の女性なのね?」
「……ええ」

   やはりクリスティンが全て喋ったか。
   一般の女性となると、母も毛嫌いするのだろうか。

「何と言う名前で、何をしている女性なの? 軍の関係者?」
「いや、その……名前は……」
   名前はまだ言いたくなかった。せめてユリアに俺のことを明かすまでは――。
「名前も知らずに付き合っているの!?」
「そうではなくて……」
「はっきり仰いなさい。フランツ」
「……彼女にはまだ此方の身分を明かしていないから……」
   母は呆れた様子で私を見た。ロートリンゲンとは名乗っていないことを改めて告げると、母は厳しい顔で私に言った。
「フランツ。名乗っていないということは、貴方はその女性を騙していることになるのよ?」
「……解っているよ。けれど、ロートリンゲン家の者と知れると、彼女は俺から離れてしまいそうで……」

   母は溜息を吐いた。こうして考えてみると、確かに俺はユリアを騙していることになる。ずっと心苦しく思ってはいるが――。

「……すると貴方から見れば思慮深い女性だということね。そういう女性なら、確かにロートリンゲンという名を聞けば、貴方から離れていくでしょう」
「母上……」
「地位や名声を狙う女性なら、ロートリンゲンという名だけで貴方に近寄って来るでしょう。でもきっと貴方の付き合っている女性はそういう女性ではない。……けれど、こういう言い方は好きではないけれど、旧領主層の生活と一般人の生活には隔たりがあります。慣習も違う。たとえば、公の場に出て行く時の立ち居振る舞い、宮殿での仕来り……、数え上げれば遑がありません」
「……母上も、一般の女性では相応しくないと?」
「相応しくないとか相応しいという問題ではなく、その女性の苦労が眼に見えるのです。その女性が苦労を覚悟で嫁いでくるというのなら、此方もそれなりの準備をしましょう。勿論、貴方にも覚悟が必要です」
   母の言いたいことが何となく解るような気がした。少なくとも、クリスティンの考えとは全く違う。
「私も旧領主層の出身ではなかったから、随分苦労しました。貴方の御祖父様、御祖母様にも大反対されたから」

   それは初めて聞く話だった。
   母が旧領主層の出身ではない? 今迄誰もそのようなことを言わなかったし、俺もそうと考えたこともなかった。驚いて母を見つめると、貴方を産むまではこの家に入らなかったのよ――と母は笑って言った。

「貴方が生まれて跡継ぎが出来たということで、御祖父様と御祖母様からお許しが出て、この家に入ったの」
「知らなかった……。母上も旧領主層の出身だとばかり……」
「だから、貴方にもその女性にも覚悟があるというのなら、この家に連れていらっしゃい。私も、そしてお父様も決して反対はしません」

   ほんの少しだけ気が楽になった。
   勿論、ユリアが俺のことを知った上で、了承してくれればの話だが――。
   それでも少しだけ、気が晴れた。


[2010.3.1]