俺が尋ねると、彼女は笑みを浮かべて応えた。
「ええ。時々。兄が帝国美術院に所属していますので、その手伝いとして」
「では……その……」
   こんな風に女性を誘うのは初めてで、拒絶されるのではないかと躊躇した。それに彼女には既に相手が居た筈だ。
   だが、この好機を逃してしまったら、きっともう次は無い。

「また君と会いたい」
   これは不適当な言葉ではないのか。もっと他に言い方があるのではないか。
   彼女は驚いた様子で俺を見つめていた。やはりこんな状況で言うべき言葉ではなかったか――。
「不快な思いをさせてしまったら済まない。……いや、その、ハンブルクで君を見た時からずっと気にかかっていて……。恋人が居ると解っていながら、このようなことを言うのもおかしいが……」
「……恋人……?」
   彼女は頬を赤らめながら、小首を傾げて問い返した。心当たりが無いとでも言う風に。もしかして恋人では無かったのか。
「あの、美術館で君の名を呼んでいた人は恋人ではないのか……?」
   すると彼女は眼を丸くし、それから面白そうに笑って言った。
「彼は私の甥です。兄の子で、確かに私と年齢は近いのですが……」
「甥……?」
「ええ。兄と私が17歳離れているので、甥とは姉弟のように育ちました。あの美術館は父が館長を勤めているので、甥や私は比較的自由に出入りしているのですよ」

   ハンブルク美術館の館長――?
   何処かで名前を聞いたことがあるような気がする。帝国の文化部門の多くは、ロートリンゲン家が出資している。ハンブルク美術館もその出資先のひとつではなかったか。
   いや、今はそのようなことよりも。

「では……、恋人は居ないのか?私が……交際を申し込んでも、構わないか……?」
「お互いに名前も知らず、おまけにまだ二度しか会っていないのに?」
   彼女は悪戯でも画策するかのように、私を見つめて言った。それが何とも可愛らしくて、男心としては今すぐ抱き締めたくなる。それをぐっと堪えて返した。
「これから何度も会えば良い。私ももっと君のことを知りたい」
   彼女は微笑して、頷いた。
   頷くということは――。
「ユリア・コルネリウスです。貴方は?」
「フランツ。……フランツ・ヨーゼフ」
   ロートリンゲンとは名乗れなかった。それを名乗ってしまうと、彼女は二度と会ってくれないようなそんな気がした。
「ユリア、明日はまだ帝都に?」
「ええ」
「では、明日も会って貰えるかな?」
   ユリアは快く承諾してくれた。

   俺は飛び上がるような思いだった。偶然にも再会し、交際まで辿り着けるとは――。
   そして、いきなり交際を申し込んだ自分自身に後から呆れた。余程、切羽詰まっていたのだろう。

「フランツ。今日は機嫌が良いですね」
   夕食の時に母が俺を見て指摘した。自分では抑えているつもりでも滲み出てしまうのかもしれない。



   翌日、ユリアと約束した場所に、約束した時間より早めにやって来た。十分ほど経ち、待ち合わせ時間より5分早く、ユリアはやって来た。二人でカフェに入り、2階席の見晴らしの良い場所で様々な話をした。
   ユリアはハンブルク美術館での俺のことを良く憶えているのだと言った。
「あんなに熱心に作品を見て回る人は少ないですから」
「閉館時間にも気付かなかった。もう少し早く来館出来れば良かったのだが……」
「フランツはハンブルクへは休暇で?」
「あ、いや。仕事で少々……」
「お仕事は何を?」
   軍人と答えると嫌われるだろうか。いやしかし、偽ることも出来ない。
「……軍に勤めている」
   ユリアは驚いて俺を見つめた。やはり軍人という職業は、一般的には異様に映ってしまうのだろう。
「美術品に興味を持つ軍人さんなんて珍しいわね」
   彼女の反応に少し安堵した。どうやら軍人というだけで毛嫌いはされていないようだ。
「それにハンブルクに軍人さんが来るなんて珍しいけど……」
「あ、別に何かあった訳ではなくて、単に会議で……。会議先がハンブルクということで、あの美術館に行けると思い、喜んだんだ」
   ユリアは面白そうに笑う。
   ユリアは今年、ハンブルクの州立大学を卒業して、父親が館長を勤めるハンブルク美術館に勤め始めたのだと話してくれた。年齢は22歳だった。ということは、俺より7つ年下ということになる。
「美術品が好きな家系なのでしょうね。父も母も兄も、この道一筋で……」
「羨ましい限りだ」
「フランツはどうして軍人さんに?」
   家の事情でそうならざるを得なかったとは、まだ言えない。人の役に立てればと思ったんだ――と当たり障りのない回答をして誤魔化した。それをユリアは立派な志ね、と返す。少々胸が痛んだ。

   ユリアは、俺が思っていた通り、素敵な女性だった。明るく朗らかで、言葉には少しも嫌みが無い。こんな女性が結婚相手だったら良いのに――と思う。
   もし俺がロートリンゲン家の人間だと知ったら、ユリアは何と言うだろうか。それでも俺と付き合ってくれるだろうか。

「ユリア、次はいつ此方へ?」
「来月の末……かしら。兄がひと月に一度、ハンブルク美術館の代表として、帝国美術院に来ているの。ハンブルク美術館は帝国美術院から資金援助を受けているから、その定例報告会があって……」

   その定例報告会には父が参加している筈だ。ということは、父はユリアの兄を知っているに違いない。やはりロートリンゲン家の出資先のひとつか。

「報告会は大変みたいで、兄はひと月に一度の大仕事と言っているわ。ロートリンゲン家という旧領主様が、私達のような文化団体に多額の資金を援助してくれているのだけど、機嫌を損ねたらいけないって」
   背にひやりと汗が流れ落ちる。もしかして俺は鎌をかけられているのか。
   いや、ユリアはそんな女性ではないと思う。自分の眼の前に居るのが、そのロートリンゲン家の息子だとは思ってもいないに違いない。
「一昨日、帝都に来た日に、そのロートリンゲン家の御屋敷の前を初めて通ったのだけど、とても大きな御屋敷だったわ。帝国有数の名家だけあるというか……。ハンブルクにはあんなに大きな御屋敷は無いから」
「……あんな邸に住んでみたいと思う?」
「いいえ。見学だけで充分ね。自分の分を超えているというか……。きっと落ち着かないと思うわ」
   ユリアの言葉が胸を突き刺す。
   もし彼女が住んでみたいと応えてくれたら、すぐにでも身分を明かすつもりだった。しかし、俺の予想が当たったというか、やはりユリアはそうではなかった。

   ロートリンゲン家という名は、一般にはやはり重いものなのだろう。ユリアと付き合うなら、きちんと伝えなければならないと思うが、この日はどうしても告げることが出来なかった。だが、ユリアも俺も互いに良い印象を持ったことは事実で、また次に会う約束を取り付けて、この日は別れた。


[2010.2.27]