今迄、恋人が一人もいなかった訳ではない。数えると二人と付き合ったことがある。
   二人とも、俺の背負うロートリンゲン家を目当てに近付いて来た。付き合ううちにそのことが解ってきて、俺は彼女達から離れていった。
   そんな経緯があるから、簡単には結婚に踏み切れないでいた。また、俺に近付く女性はそんな女性ばかりなのだろうかと、軽い女性不信にも陥っていた。

   ユリア――彼女はどうだろうか。俺がロートリンゲン家の人間だと解れば、恋人と別れて俺の許に来てくれるだろうか。
   否――、そのような女性なら、俺は伴侶としたくない。
   俺は贅沢なのだろうか――。


   事あるごとにユリアのことを思い出した。どうしても忘れられなかった。次の休暇にはハンブルクのあの美術館に行こうか――と本気で考えていた。
   帝都からハンブルクまで遠い。列車で一昼夜かかる。だがそうしてでも、彼女にもう一度会いたかった。
   会ってどうするのか。ただ見ているだけで良いのか――。
   彼女には明らかに恋人が居た。それなのに彼女を困らせるような真似をするのか。


   悶々とした気持のまま、二週間が過ぎていった。来週末には、フォン・シェリング家のクリスティンと、顔合わせをかねて食事をすることになっている。正直、気乗りがしなかった。だからといって断ることも出来ない。

   気晴らしに街に出掛けるか――。
   考えていてもどうしようもない。それに、クリスティンと一度会ったところで、そのまま結婚に繋がる訳でもないのだから――。

「フランツ様。どちらへ」
   部屋を出て廊下を歩いていると、執事のエリクが声をかけてきた。出掛けて来ると告げると、彼は一礼してお気を付けて行ってらっしゃいませ、と返す。その隣に控えていたパトリックも頭を下げて、同様の言葉を告げる。
   こうした光景は普通の家庭では無い光景なのだろう。家に執事や管財人が居るということは、普通の家庭には無いことで、俺は自分の家が特殊なのだということを、学校に入ってから知った。
   だから――きっと、俺の妻になる女性はこうした環境に慣れていないと大変なのだろうと思う。

   そうなると――、妻となる女性は旧領主家からの女性でなければならないことになる。しかしそう考える自分が堪らなく嫌になる。旧領主家であれ一般家庭であれ、普通の人間ではないか。環境による差だけで、全てを決めてしまって良い筈が無い。

   ひとつ息を吐く。今は少し考えるのを止めよう。
   何処に行こうか――。

   行き先を考えながらも、足は自ずと帝国美術館へと向かっていた。エリクにしろ、パトリックにしろ、私が出掛けると言っても最近は行き先を尋ねることは無い。美術館か博物館だろうと解っているのだろう。確かにその通りなのだが。

   帝国美術館へは大通りを真っ直ぐ行き、宮殿とは反対の方向に進んでさらにテレーズ通りを左折する。邸からは徒歩30分ほどかかる。とはいえ、近道がある。大通りの真ん中で路地を曲がり、さらに直進し、また曲がる――階段状に路地を進むことで、時間を10分間短縮出来る。いつもその道を通っていた。
   今日もそうして美術館に向かっていた。其処は帝都に住む人々のアパートが建ち並んでいて、大通りよりは生活感が漂っている。今日は学校も休みのせいか、子供達は小路の脇にある公園で遊んでいた。

   それを横目に歩いていたところ、大きな荷物を抱えてよろよろと歩く人の姿が視界に入った。此方に向かって歩いているが、上半身がその巨大な荷物にすっぽりと隠れていて、両足しか見えない。あれでは視界が遮られて歩きづらいだろうに。
   手助けしようと歩み寄った時、公園から飛び出して来た子供達が、その人にぶつかる。途端に、身体が後ろ向きに倒れていく。
   後ろ向きに倒れる奴があるか――、慌てて手を出して、その背を支え、転倒を防ぐ。
「あ、ありがとうございます」
「この荷物を一旦、足下に置いた方が良い」
「いいえ、あの……、私よりも少しの間、荷物を支えていて貰えますか?」
   女性の声だった。こんな大きな荷物を一人で運んでいたのが女性だったとは。

   どうやら大事な荷物らしい。女性は自分を支えるよりも荷物を支えてほしいと告げる。とはいえ、このまま手を放したら女性は間違いなく転倒してしまう。そこで、女性の背を右手で支えたまま、左手で四角い大きな荷物を持った。
   厳重に包まれた四角い大きな荷物――、それはキャンバスのようだった。誰か高名な作家の絵なのだろうか。

「ではこうして荷物を持って支えているから、このまま背を起こせるか?」
   はい、と女性が返事をする。間近に顔があるだろうに、キャンバスのようなこの大荷物に阻まれて顔を見ることは出来ない。女性は身体を起こす。女性を支えていた手が空いた時、彼女に代わって、その荷物を持った。
「これを横に倒すから、君は其方を持って」
「あ、はい。ありがとうございます」
   縦に持っていた荷物をゆっくりと倒すと、女性の手がその端に伸びてくる。そしてそれを共に下ろしていく。
   その時、初めて女性の顔が見えた。

   瞬間、私の方が荷物を取り落としそうになった。
   見間違いかと思った。
「あ……!」
   女性は眼を丸くして此方を見つめた。

   驚いたことに――、それはユリアだった。帝都から遠いハンブルクで出会った女性とこの帝都で会うことになるとは――。


[2010.2.25]