「フランツ。そろそろ貴方も身を固めなくてはいけませんよ。今年29歳、来年はもう30歳です。のんびり構えていては、良縁も逃げてしまいます」
   ハンブルクでの出張を無事に終えて、帝都に戻ってきたこの日の夕食後、リビングルームで珈琲を傾けていた時のことだった。家族で語り合うこの時間に、母の小言が始まった。
「まあ……、縁があれば……」
「心に決めた方が居るということも無いの?」
「……全く」
「休暇となれば美術館やら博物館にばかり出掛けて……。もう子供がひとりぐらい居ても良い年ではないですか」
   この家に生まれたからには、跡目を残すことが一番大事なことなのですよ――と、もう何度も何度も聞かされた言葉を、また聞かされる。



   来年には30歳になる。両親が焦り始めるのも無理も無い。
   俺とて解ってはいる。
   ロートリンゲン家の次期当主として、そろそろ身を固めなければならないことも。
   それを拒むつもりもない。いつか相手が現れる……と、いつも考えている。ただその相手がなかなか現れないだけだ。


「フランツ。お前の話によると、今、付き合っている女性は居ないということだな」
   いつもは母の小言を聞いているだけの父が、今日はそう問い掛けてきた。母の話の切りの良いところで部屋に行こうかと思っていたのに、これではこの場から逃げられないではないか――。
「はい。まあ……」
「ロートリンゲン大将は女性よりも美術品を好むという噂が流れていると聞いたぞ」
「……そんな噂が何処から……」
「美術館ばかりに足繁く通い、偶に社交界に参加しても女一人連れていないようでは、そうした噂が立つ」
   恋愛というだけならまだしも、結婚ということになると、そう容易く決められるものではなかった。これから一生共に過ごすことになるのだから――。

   ふと、ハンブルクで会ったユリアという女性が思い出された。彼女はあの男とゆくゆくは結婚するのだろうか。

「相手が居れば断るつもりだったが……、居ないのならば一度会ってみると良い」
「……あの、父上。何のお話ですか……?」
   このうえなく嫌な予感がする。
「ルートヴィヒ・フォン・シェリングが先日、お前に縁談の話を持ちかけてきた。彼の長女、クリスティンとの縁談だ」

   フォン・シェリング家の長女クリスティン――。
   一度会ったことがある。社交界でとびきり飾り立てていた女性だ。まだ俺よりも大分若い筈だが――。
「クリスティンは今年20歳になったばかりだが、ルートヴィヒによると、どうやらお前に気があるようでな。……お前に相手が居るかどうか尋ねてからということにしてあるが……」
「20歳ではまだ若いですし……」
「まあ、フォン・シェリング家ならば良い話ではないですか」
   母上がここぞとばかりに声を挙げる。父上は頷きながら、しかし少し考え込む風で言った。
「だが我が家とフォン・シェリング家が結びつくと、旧領主層の均衡が崩れてしまわないかということが気にかかる。ルートヴィヒはどうもそれを狙っているようだからな」
「俺も父上の意見に賛成です」
「お前は単に自由を謳歌したいから結婚を拒んでいるだけだろう」
「いえ、決してそのようなことは……」
「どうする。これを縁と思って、クリスティンと会ってみるか?当人同士の気が合わなければそれで構わん」
   困ってしまい返答に詰まっていると、母がその約束を取り付けるよう父に促す。この日の珈琲は随分苦く感じられた。


[2010.2.24]