3.フランツ結婚編



   妻と――ユリアと出会ったのは、私が29歳の、大将となってまだ1年目の頃のことだった。邸と本部を往復しながら、休日には美術館へ行くのを趣味としていた。そんな日々を送っていたから、その頃には恋人も居なかった。

「閣下。どちらへ?」
   ホテルの一室を出たところで、少将から声をかけられる。帝国北部の町、ハンブルクで開催された会議の全日程を終え、皆が一息吐いたところだった。
   今からの時間は自由時間となる。美術館の開館時間にはまだ間に合う。此処まで足を運んだのなら、是非見ておきたいところがあった。
「美術館まで出掛けてくる。7時頃には戻ってくるから、卿も自由時間を満喫しろ」
「……また美術館ですか。本当にお好きですね」
「卿も来るか?」
「いいえ。遠慮しておきます。では気を付けて行ってらしてください」
   軍務省には美術品に興味を示す者が少ない。少ないどころか居ない。じっくりと絵や工芸品を見るのは、胸が弾むものではないか――そう思うのに、皆は全くそれを理解してくれない。まあこういうものは一人でじっくり楽しむに限るが。

   ハンブルクには有名な美術館がある。一度は行ってみたいと思っていたところだった。今は午後4時で開館時間は5時までだが、幸いにしてホテルから車で5分しかかからない。
   美術館に到着するとすぐにチケットを購入し、展示室へと急いだ。こういう時は自ずと足が速まる。

   特別展も同時開催しているようだが、全てを見て回るには時間がない。それに特別展なら帝都でも開催されるだろう。
   今回は常設展のみを見て回ることにした。人は斑で、この様子なら閉館時間まで、ひとつひとつの作品をゆっくり見ることが出来そうだ。

   一点一点をじっくりと眺めていく。
   そうして――、時間が過ぎゆくのも解らないまま、時が過ぎていった。



   全ての作品を見終えて、ふと周りを見渡した時には、客は誰も居なかった。腕時計を見ると、閉館時間の5時は疾うに過ぎている。5時どころか6時になろうとしていた。慌てて出口へと向かった。ちょうど其処でこの美術館の学芸員だろうか、一人の女性がテーブルの上の図録やパンフレットを整理していた。
「閉館時間を過ぎてしまって済まない。今すぐ出……」
   その女性が此方を振り返る。

   白い肌、長い睫に彩られた瞳、ふっくらとした仄かに赤い色の唇。その唇が弧を描く。
   綺麗な――女性だった。

「どうぞごゆっくり御覧下さい。入館を締め切っただけですから」
   鮮やかな絵を見ているようだった。決して飾り立てている訳ではなく、自然と美しさが備わっているような――。
「あの……何か……?」
「あ、いや。済まない。あ、その図録を頂こう」
   何をこんなに動揺しているのだ――自分自身にそう言い聞かせても、胸の高揚は止まらなかった。この美術館の学芸員であろう女性はにこやかに応えて、手許から図録を一冊取り上げる。彼女のひとつひとつの動作に釘付けになった。

   こんなことは初めてだった。
   帝都でもこんなに綺麗な女性を見たことが無い。飾り気の無い、自然体の美とでもいうのか。社交界での女性は着飾りすぎて、毒々しく見えることもあるのに。

「……あの……」
   購入した図録を受け取り忘れて、慌てて手を出す。女性は微笑みながら、ありがとうございます、と言った。
   せめて――、せめて名前だけでも聞いておくべきか。見知らぬ男に名を聞かれたら、嫌がるだろうか。
「ユリア」
   背後から声が聞こえてくる。振り返ると彼女と同じ年齢ぐらいの男が歩み寄って来た。
   ユリア、と呼ばれた女性は待っていて、と告げる。
   恋人なのだろう――。
   この瞬間、俺は酷くがっかりしてしまった。だが考えてみればこれだけ綺麗な女性だ。恋人が居ないということはあるまい。

   たったこの数分の間に恋に落ちて、一瞬に静まってしまったようだった。ありがとうございました、と笑みを湛えて告げる女性を背に、ホテルへと戻っていった。


[2010.2.23]