「いいえ。私はまったくその意志は御座いませんので……。はい。身に余るお話をありがとうございました。え?……いいえ、私は出来ることなら此方のロートリンゲン家に一生勤めるつもりですので……」

   フォン・シェリング家から執事にならないか――と引き抜きの連絡が来たのは、1時間前のことだった。それからずっと、電話口で拘束されていた。相手がフォン・シェリング家であるがために、すぐに電話を切ることも出来なかった。

   ちょうど机の上にあった書類を片付けながら、電話に対応した。まったくフォン・シェリング家は何を考えているのか。家人の引き抜きなど、家同士が揉め合うだけだろうに――。
   丁重に断って電話を切ることに成功した。給金を現在の倍額出すと言っていたが、私はフォン・シェリング家には全く気が向かなかった。


「フリッツ」
   背後から呼び掛けられて驚いて振り返る。一体いつから其処にいらしたのか――旦那様が扉の前に立っていた。
「お呼びいただければ此方から参りましたのに……」
   ロートリンゲン家では、使用人の職種ごとに執務室として一室が与えられている。執事を務める私の部屋に、旦那様はわざわざやって来た。
「今の電話、引き抜きか?」
「はい。フォン・シェリング家から……」
「フォン・シェリング家か。……またあの家は何か良からぬことを考えているのではないだろうな」
「両家の関係がありますから、こうした引き抜きはあまり感心出来ませんが……。丁寧に断ったつもりですが、フォン・シェリング家から旦那様に苦情が入るかもしれません。申し訳御座いません」
「その時は此方が言い返す。お前が気に病むことは何も無い。……それよりも」
   旦那様は私を見つめ、表情を緩める。
「一生勤めるつもりだと言ってくれたな」
「はい。私はそのつもりで仕えております」
「ありがとう」
   旦那様は笑みを浮かべて言った。


   厳しい方だが、旦那様の垣間見せるこうした優しさに惹かれた。御子様方が立派にご成長された今でも、相変わらず厳しいが、それも根本に優しさがあってのことなのだと、私には解る。

「フリッツ。今度ユリアとハンブルクに1週間程行って来ようと思うのだが、日程の調整をしてほしい」
   旦那様はつい先日、軍務省を退官した。これからは悠々自適に暮らす――と宣言した通り、奥様と共にお好きな美術館や博物館を巡り歩いたり、本を読んだりして過ごしている。今の生活を何よりも楽しんでいるようだった。
「解りました。……今月であれば面会の御予定も少ないですから……」
   このロートリンゲン家には、投資の相談を持ちかけてくる人々も沢山いる。軍務省を退官したとはいえ、旦那様の仕事は山のようにあった。
「月末か。ではそのように整えてくれ」


   私はこの家を気に入っていた。今の倍以上の給金を貰うよりも、ずっとこの家でお仕えしたいと思っている。
   きっと私は父のように死ぬまでこの家に仕えるだろう。大変な仕事なのに、亡き父は一度も仕事がきついという言葉を言わなかった。
   その理由が、今になって解ったような気がする。

【End】



[2010.2.21]